2009年09月01日
アンチェインド・メロディー
アンチェインド・メロディー

確か長女が中学3年の頃の映画。
長女が、僕のアンチェインド・メロディーを聴いて「なんで知ってるの」って驚いていた(笑)。
何故か今頃になるとこの映画のこと、そしてライチャーズ・ブラザースのこの曲を思い出す・・・・・・
Righteous Brothers - Unchained Melody ('Ghost' Soundtrack)
ところで、最近TVでSMAPとかがやっているCFの“ロコモーション”だけど、
アレって、僕が中学校の時のビッグヒットでした。
日本ではたしかザ・ヒットパレードかなんかで伊東ゆかりが歌ってました・・・・・・
オリジナルはリトル・エバのコレです↓
で、GFRもカヴァーしてました↓
で、“アイドルを探せ”のシルビー・バルタンもカヴァーしてたんですね↓
ついでに“アイドルを探せ”をどうぞ!

確か長女が中学3年の頃の映画。
長女が、僕のアンチェインド・メロディーを聴いて「なんで知ってるの」って驚いていた(笑)。
何故か今頃になるとこの映画のこと、そしてライチャーズ・ブラザースのこの曲を思い出す・・・・・・
Righteous Brothers - Unchained Melody ('Ghost' Soundtrack)
ところで、最近TVでSMAPとかがやっているCFの“ロコモーション”だけど、
アレって、僕が中学校の時のビッグヒットでした。
日本ではたしかザ・ヒットパレードかなんかで伊東ゆかりが歌ってました・・・・・・
オリジナルはリトル・エバのコレです↓
で、GFRもカヴァーしてました↓
で、“アイドルを探せ”のシルビー・バルタンもカヴァーしてたんですね↓
ついでに“アイドルを探せ”をどうぞ!
2009年06月20日
うたごえ喫茶

この若者たち、いまでは皆さん還暦?古希???
<歌声喫茶>ホテルで復活 団塊の世代に大人気
6月17日13時15分配信 毎日新聞
不況の影響にさらされるホテルの新たな「ドル箱」になるのか--。ホテルが企画する「歌声喫茶」が大盛況だ。1950~60年代に大流行した時に通った世代が駆けつける「歌声ホテル」。人気のわけは。【小泉大士、坂巻士朗】
5月中旬のさいたま市浦和区の高級ホテル、浦和ロイヤルパインズホテル。132人が、アコーディオンなどの生演奏や合唱団のコーラスに合わせて「青い山脈」「青葉城恋唄」などを合唱した。
2時間半で約40曲を歌った参加者はまだ歌い足りなそう。さいたま市の男性(67)は「上手、下手は関係なく思い切り歌える。一緒に歌う一体感がカラオケにない魅力。新たな出会いもある」。
青春時代に東京・新宿の老舗に通った埼玉県白岡町の男性(66)も「あのころの気持ちがよみがえる。新宿まで通った学生時代を思い出し、若返る」と言葉を弾ませた。
チケットは団塊以上の世代などに1カ月足らずで完売し、その後も問い合わせが続いた。歌手のばんばひろふみさんを招く今月30日の2回目は定員を450人に増やしたが、再び売り切れた。
戦後生まれ世代がみな還暦・・・・・・・
歌声も、労働歌、ロシア民謡から昭和の歌謡曲、フォークソングへと。
最近のボランティアでは、シャンソンとかグループサウンズも・・・・・・
昭和30年代の青春歌謡です!!
2009年06月17日
高田渡的人生考

高田渡的人生考
高田渡(たかだ わたる、1949年1月1日 - 2005年4月16日)は、1960年代から1990年代にかけて活躍したフォークシンガー。 父親は、詩人・活動家・元共産党員の高田豊。 スティールギタリストの高田漣は息子。
故・筑紫哲也&故・高田渡
高田渡 / 生活の柄
高田渡 小室等 / 自転車にのって 2002年
みんなもとしおとるんだぞ。
で、しんじゃうんだぞ・・・・・・
2009年06月15日
グンブロ“フォーク村”

Kiyoshiro Imawano - 傘がない
「春夏秋冬」 泉谷しげる 小田和正 桑田佳祐 忌野清志郎
Takurou Yoshida 落陽 1994
まあ、つうことで、
グンブロ“フォーク村”です!!
こんなんで、イオンのセントラルコートでやってみようかなあとか思っていますが・・・・・・
グンブロガーのみなさんいかがでしょうか!!???
2009年06月14日
ツイスト!!
サンライトツイスト
太陽の下の18歳“カトリーヌ・スパーク”主演

1963年。昭和38年です。
昭和38年といえば、僕が14歳です。中学3年になった年。
なんといってもエポックな出来事といえば、アレです・・・・・・・
ダラスの金曜日
11月22日テキサス州ダラスを遊説中の第35代アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディが暗殺された。
それは日本にも衛星中継され、今でも僕の脳裏にその時の様子が焼きついている・・・・・・
まあ、思い起こせば13の時に姉のガットギターに興味を持ち始めて、
隣んち、久男ちゃんの従兄弟の群大の医学部学生で、フォークソングを弾き語る憧れのお兄さんがいた。
はじめて教わったのが♪花はどこへ行った♪という当時流行っていた・・・・・・
「C=Am=F=G7」
だけで弾ける、フォークソングの名曲中の名曲のそれだった。
そんな14歳の夏、学校帰りに、えもいえぬサウンドが僕の耳に飛び込んできた・・・・・・・
それは、嘉多町はにあった高崎唯一のレコード屋、「サカイレコード」の店先からだ。
さらに、同級生のN君ち、N君ちは「自転車預かり屋」を商っていて、その自転車置き場へ行くと洋画のポスターが。
それが、当時18歳だったイタリア女優、カトリーヌ・スパーク主演の、
「太陽の下の18歳」
もちろん、僕らがその映画を見るわけにはいくはずもない・・・・・・
N君が、
「ああ、この映画なら連雀町の“銀星座”だよ」
と教えてくれた。さっそく翌日の下校時には、中央デパートの所をいつもはアサヒ商会の角を左に行くのだったが、
その日は、高島屋ストア方面へ、その銀星座を目指して足早に胸が高鳴っていた。
なぜなら、そこ、銀星座はいわゆる「洋館」で当時は「18歳未満禁止」の、洋画の上映館だった・・・・・
まあ色気づき始めた14歳のニキビ面の僕です。
「世界の夜」とか、「世界残酷物語」とか・・・・・・
まあ、今にしてみれば「なんで?」なんですけど、洋画といえば、ラブシーンのドデカイ看板とか、
胸もあらわなブロンドのお姉さんの看板とか、それにスチール写真も映画館前のショーケースに溢れていた。
まあ、大人への関所みたいなもんです・・・・・・
で、そこ、銀星座に「太陽の下の18歳」です。
そのドデカイ看板の中の「カトリーヌ・スパーク」が女神の如く、神々しく僕に微笑みかけているではありませんか!!
で、映画館の拡声器から流れている音楽、サウンドは・・・・・・
♪チラタタ、チラタタ、チラタタ、チラタタ~レジレジ~レバ~ィ、プレノフェマ~レマ~♪
カタカナで書くとそんな感じで歌っています・・・・・・
で、そうです、ツイストです!!
僕は下手だったけど、提灯やのセガレで、W君というやつ、こいつが無茶苦茶、ツイストが上手かった!!
そうそう、その、自転車預かり屋のN君も上手い・・・・・
まあ、テレビではシャボン玉ホリデーとかザ・ヒットパレードです。植木等とか、飯田久彦、ザ・ピーナツがツイストです!!
で、掃除のとき、僕がホウキをギターに見立てて・・・・・・
♪チラタタ、チラタタ、チラタタ、チラタタ~レジレジ~レバ~ィ、プレノフェマ~レマ~♪
ってやると、W君とN君が踊りだす。運動神経抜群のお二人・・・・・・
まあ、N君は50メートルを6秒台で、走りましたからねぇ。
しかし、イタリア語です・・・・・・
何度も、何度も、あの巻き舌の発音練習したけど、結局だめでした。
で、ナント、同級生のK君がその「太陽の下の18歳」のレコードを持っていました。
それから、僕と数人の仲間が、K君ちに入り浸ったのはいうまでもありません(笑)。
それでは、YouTubeからの頂きモノですが、その中の・・・・・・・
♪サンライズツイスト♪をお楽しみください!!
以下は当時流行ったヒットパレードモノです・・・・・・
ザ・ピーナツの、いわゆる“恋バカ”・・・・・
♪恋のバカンス♪です。
Del Shannon Runaway(悲しき街角)
デル・シャノン・・・・・・
18年くらい昔ですけどLAのライブハウスで見ちゃいました!!
Bill Haley - Rock Around The Clock (1956)
ビル・ヘイリー。元祖ロックンローラーです。
当時は、白人のカントリーと黒人のR&Bのコラボだったようです・・・・・・
elvis presley blue suede shoes color
Elvis Presley - Hound Dog
エルビスのレコドードは一時「発売禁止」になりました・・・・・・
公序良俗に反するという全米PTA組織の横やりで(笑)。
やはりあの頃の「今時の若者」だった僕らは世間の白い目に反抗的でしたね・・・・・・
でも、今の、今どきは、行政が「高校生のライブ」を主催です。
まあ、ロックって、つまり、ジェームス・ディーンの「理由なき反抗」、Revel・・・・・・です。
まあ時代ですね・・・・・・・
わが娘、バンプに夢中です(笑)。
太陽の下の18歳“カトリーヌ・スパーク”主演

1963年。昭和38年です。
昭和38年といえば、僕が14歳です。中学3年になった年。
なんといってもエポックな出来事といえば、アレです・・・・・・・
ダラスの金曜日
11月22日テキサス州ダラスを遊説中の第35代アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディが暗殺された。
それは日本にも衛星中継され、今でも僕の脳裏にその時の様子が焼きついている・・・・・・
まあ、思い起こせば13の時に姉のガットギターに興味を持ち始めて、
隣んち、久男ちゃんの従兄弟の群大の医学部学生で、フォークソングを弾き語る憧れのお兄さんがいた。
はじめて教わったのが♪花はどこへ行った♪という当時流行っていた・・・・・・
「C=Am=F=G7」
だけで弾ける、フォークソングの名曲中の名曲のそれだった。
そんな14歳の夏、学校帰りに、えもいえぬサウンドが僕の耳に飛び込んできた・・・・・・・
それは、嘉多町はにあった高崎唯一のレコード屋、「サカイレコード」の店先からだ。
さらに、同級生のN君ち、N君ちは「自転車預かり屋」を商っていて、その自転車置き場へ行くと洋画のポスターが。
それが、当時18歳だったイタリア女優、カトリーヌ・スパーク主演の、
「太陽の下の18歳」
もちろん、僕らがその映画を見るわけにはいくはずもない・・・・・・
N君が、
「ああ、この映画なら連雀町の“銀星座”だよ」
と教えてくれた。さっそく翌日の下校時には、中央デパートの所をいつもはアサヒ商会の角を左に行くのだったが、
その日は、高島屋ストア方面へ、その銀星座を目指して足早に胸が高鳴っていた。
なぜなら、そこ、銀星座はいわゆる「洋館」で当時は「18歳未満禁止」の、洋画の上映館だった・・・・・
まあ色気づき始めた14歳のニキビ面の僕です。
「世界の夜」とか、「世界残酷物語」とか・・・・・・
まあ、今にしてみれば「なんで?」なんですけど、洋画といえば、ラブシーンのドデカイ看板とか、
胸もあらわなブロンドのお姉さんの看板とか、それにスチール写真も映画館前のショーケースに溢れていた。
まあ、大人への関所みたいなもんです・・・・・・
で、そこ、銀星座に「太陽の下の18歳」です。
そのドデカイ看板の中の「カトリーヌ・スパーク」が女神の如く、神々しく僕に微笑みかけているではありませんか!!
で、映画館の拡声器から流れている音楽、サウンドは・・・・・・
♪チラタタ、チラタタ、チラタタ、チラタタ~レジレジ~レバ~ィ、プレノフェマ~レマ~♪
カタカナで書くとそんな感じで歌っています・・・・・・
で、そうです、ツイストです!!
僕は下手だったけど、提灯やのセガレで、W君というやつ、こいつが無茶苦茶、ツイストが上手かった!!
そうそう、その、自転車預かり屋のN君も上手い・・・・・
まあ、テレビではシャボン玉ホリデーとかザ・ヒットパレードです。植木等とか、飯田久彦、ザ・ピーナツがツイストです!!
で、掃除のとき、僕がホウキをギターに見立てて・・・・・・
♪チラタタ、チラタタ、チラタタ、チラタタ~レジレジ~レバ~ィ、プレノフェマ~レマ~♪
ってやると、W君とN君が踊りだす。運動神経抜群のお二人・・・・・・
まあ、N君は50メートルを6秒台で、走りましたからねぇ。
しかし、イタリア語です・・・・・・
何度も、何度も、あの巻き舌の発音練習したけど、結局だめでした。
で、ナント、同級生のK君がその「太陽の下の18歳」のレコードを持っていました。
それから、僕と数人の仲間が、K君ちに入り浸ったのはいうまでもありません(笑)。
それでは、YouTubeからの頂きモノですが、その中の・・・・・・・
♪サンライズツイスト♪をお楽しみください!!
以下は当時流行ったヒットパレードモノです・・・・・・
ザ・ピーナツの、いわゆる“恋バカ”・・・・・
♪恋のバカンス♪です。
Del Shannon Runaway(悲しき街角)
デル・シャノン・・・・・・
18年くらい昔ですけどLAのライブハウスで見ちゃいました!!
Bill Haley - Rock Around The Clock (1956)
ビル・ヘイリー。元祖ロックンローラーです。
当時は、白人のカントリーと黒人のR&Bのコラボだったようです・・・・・・
elvis presley blue suede shoes color
Elvis Presley - Hound Dog
エルビスのレコドードは一時「発売禁止」になりました・・・・・・
公序良俗に反するという全米PTA組織の横やりで(笑)。
やはりあの頃の「今時の若者」だった僕らは世間の白い目に反抗的でしたね・・・・・・
でも、今の、今どきは、行政が「高校生のライブ」を主催です。
まあ、ロックって、つまり、ジェームス・ディーンの「理由なき反抗」、Revel・・・・・・です。
まあ時代ですね・・・・・・・
わが娘、バンプに夢中です(笑)。
2009年06月12日
PP&M
ピーター・ポール&マリー(Peter・Paul and Mary)

ピーター・ポール&マリー(Peter・Paul and Mary)は、1960年代のアメリカで最も成功したフォークグループの一つ。
ピーター・ヤーロウ(Peter Yarrow)、ノエル・ポール・ストゥーキー(Noel Paul Stookey )とメアリー・トラヴァース(Mary Travers)のトリオ。
ベトナム反戦のメッセージを全世界に送り出した。通称PP&M。
原曲の作者はアメリカ・ジョージア州出身の女性フォークシンガー、ヘディ・ウエスト(1938-2005)。
父親はアパラチア山脈の石炭鉱山で炭坑労働組合を組織しつつ詩を書いていた人で、 彼女の作品には父親や祖先の出身地であるイギリスの民謡の影響が見られると言われています。
『500マイル』もメロディのルーツはイギリスであり、また歌詞の故郷を離れて遠方の地で働く貧しい労働者を歌う歌詞は父親の影響を思わせます。
「風に吹かれて」(かぜにふかれて)は、ボブ・ディランの代表曲の一つ。フォークの名作である。原題は Blowin' in the Wind。1962年。シンプルで力強い旋律と和声進行を持つメッセージソング、プロテストソングである。
ボブ・ディランは、フォーク歌手のオデッタが歌う「競売はたくさんだ(No More Auction Block)」のカヴァーをし、それをきっかけにしてこの曲を作ったといわれている。ボブ・ディランの『ブートレグ・シリーズ 1~3』には、1962年にニューヨークの「ガスライト・カフェ」で、ディランが「競売はたくさんだ」を歌った音源が収められている。
ディランは曲の中で「いつの日になったら為政者が民衆の声を聞き、自由と平和と平等がもたらされるのだろうと歌う。友よ—」と歌い、続けて「吹く風の中にその答えはあるのだ」としている。
このディランの呼び掛けは、当時の若者に既成の社会構造から足を踏み出すことを促した。アメリカ合衆国だけでなく、日本においても広く聴かれ歌われた。
1955年、ピート・シーガーが制作。ロシアの作家、ミハイル・ショーロホフの「静かなドン」の最初のほうに出てくる、コサックの民謡にヒントを得たのだという。
だが、この頃はまだ反戦歌としては歌われていなかった。
1962年、アメリカ合衆国がベトナム戦争真っ只中であった時期に、キングストン・トリオによって同曲はカヴァーされ、大ヒットとなった。
また同年、ピーター・ポール&マリーによってもカヴァーされ、こちらも大ヒットとなり、この年(つまり初版の実に7年後)以降、同曲は反戦歌として広く親しまれるようになり、現在に至っている。
『パフ』の歌詞は1959年、レオナルド・リプトンが19歳の時、オグデン・ナッシュの詩"Custard the Dragon"の一節"Really-O, Truly-O, little pet dragon."に影響されて作られた。学友のピーター・ヤローが歌詞を加えて作曲し、1961年からピーター・ポール&マリーの曲として演奏されるようになった。その後、1963年にレコーディングされ、大ヒットした。
歌詞は、不老の竜「パフ」と少年「ジャッキーペーパー」との交流と別れを描いている。舞台はおとぎの国Honah Leeの「海」。『パフ』の名前は竜の不思議な息や鳴き声に由来している。
米国ではドラッグ・ソングと曲解され、ヒッピーの聖歌になっているとの噂が流れた。マリファナ所持に極刑を科しているシンガポールなどで放送禁止になる事態もあった。作詞者はこれを強く否定し、ステージ上でも観客に無実をアピールし続けた。
1978年から、この曲を題材にとったアニメシリーズが放映されている。パフの声はBurgess Meredithがあてた。
また、"Puff the Magic Dragon"はベトナム戦争においてAC-47/AC-130攻撃機を指す米軍スラングにもなった。
KIYOSHIRO IMAWANOhttp://www.youtube.com/watch?v=YpsMmdK-k6E

ピーター・ポール&マリー(Peter・Paul and Mary)は、1960年代のアメリカで最も成功したフォークグループの一つ。
ピーター・ヤーロウ(Peter Yarrow)、ノエル・ポール・ストゥーキー(Noel Paul Stookey )とメアリー・トラヴァース(Mary Travers)のトリオ。
ベトナム反戦のメッセージを全世界に送り出した。通称PP&M。
原曲の作者はアメリカ・ジョージア州出身の女性フォークシンガー、ヘディ・ウエスト(1938-2005)。
父親はアパラチア山脈の石炭鉱山で炭坑労働組合を組織しつつ詩を書いていた人で、 彼女の作品には父親や祖先の出身地であるイギリスの民謡の影響が見られると言われています。
『500マイル』もメロディのルーツはイギリスであり、また歌詞の故郷を離れて遠方の地で働く貧しい労働者を歌う歌詞は父親の影響を思わせます。
「風に吹かれて」(かぜにふかれて)は、ボブ・ディランの代表曲の一つ。フォークの名作である。原題は Blowin' in the Wind。1962年。シンプルで力強い旋律と和声進行を持つメッセージソング、プロテストソングである。
ボブ・ディランは、フォーク歌手のオデッタが歌う「競売はたくさんだ(No More Auction Block)」のカヴァーをし、それをきっかけにしてこの曲を作ったといわれている。ボブ・ディランの『ブートレグ・シリーズ 1~3』には、1962年にニューヨークの「ガスライト・カフェ」で、ディランが「競売はたくさんだ」を歌った音源が収められている。
ディランは曲の中で「いつの日になったら為政者が民衆の声を聞き、自由と平和と平等がもたらされるのだろうと歌う。友よ—」と歌い、続けて「吹く風の中にその答えはあるのだ」としている。
このディランの呼び掛けは、当時の若者に既成の社会構造から足を踏み出すことを促した。アメリカ合衆国だけでなく、日本においても広く聴かれ歌われた。
1955年、ピート・シーガーが制作。ロシアの作家、ミハイル・ショーロホフの「静かなドン」の最初のほうに出てくる、コサックの民謡にヒントを得たのだという。
だが、この頃はまだ反戦歌としては歌われていなかった。
1962年、アメリカ合衆国がベトナム戦争真っ只中であった時期に、キングストン・トリオによって同曲はカヴァーされ、大ヒットとなった。
また同年、ピーター・ポール&マリーによってもカヴァーされ、こちらも大ヒットとなり、この年(つまり初版の実に7年後)以降、同曲は反戦歌として広く親しまれるようになり、現在に至っている。
『パフ』の歌詞は1959年、レオナルド・リプトンが19歳の時、オグデン・ナッシュの詩"Custard the Dragon"の一節"Really-O, Truly-O, little pet dragon."に影響されて作られた。学友のピーター・ヤローが歌詞を加えて作曲し、1961年からピーター・ポール&マリーの曲として演奏されるようになった。その後、1963年にレコーディングされ、大ヒットした。
歌詞は、不老の竜「パフ」と少年「ジャッキーペーパー」との交流と別れを描いている。舞台はおとぎの国Honah Leeの「海」。『パフ』の名前は竜の不思議な息や鳴き声に由来している。
米国ではドラッグ・ソングと曲解され、ヒッピーの聖歌になっているとの噂が流れた。マリファナ所持に極刑を科しているシンガポールなどで放送禁止になる事態もあった。作詞者はこれを強く否定し、ステージ上でも観客に無実をアピールし続けた。
1978年から、この曲を題材にとったアニメシリーズが放映されている。パフの声はBurgess Meredithがあてた。
また、"Puff the Magic Dragon"はベトナム戦争においてAC-47/AC-130攻撃機を指す米軍スラングにもなった。
KIYOSHIRO IMAWANOhttp://www.youtube.com/watch?v=YpsMmdK-k6E
2009年06月11日
メンバー募集!!

僕です。楽しそうでしょ!!
先月の某高齢者介護施設での、♪湖畔の宿♪
「懐かしの昭和歌謡」チョボラ・コンサートですのスナップです。
先月から月一のペースで土日いずれか、高崎イオンのセントラルコートで“音楽市場”を開催します。
その時々でイベント内容を企画したいと考えております。
例えば、「うたごえ喫茶」とか、「フォーク村」とか・・・・・
'60sのアメグラ特集とか、先月の第一回はイージーリスニングなJAZZのユニットと僕の弾き語りでした。
次回は、今のところ7月11日の予定で、とりあえず、「フォーク」でいこうか、「うたごえ」で行こうか迷ってます。
で、楽器弾ける人、歌える人募集します。
まあまあ、弾ける程度でOKです!!
楽器は、三味線でも尺八でも和楽器から洋楽器まで、オールジャンルで・・・・・・
とにかく「音楽市場」ですから。
とりあえず、バンドメンバーとしては「'60sのアメグラ」メンバーを募集です。
ボーカル希望の方はそこそこイケるかなあっていう人がいいですね。
楽曲は、ポール・アンカとかニール・セダカ、コニー・フランシスとかで、いわゆる、
「ザ・ヒットパレード」ものです。
まあ、バンドですので、ベースとかギター、ドラムとかもその線でお願いしたんですけど。
因みに譜面は全部「Cメロ」ですけどそろっています。
コードさえ読めれば結構です。
これからやってみたいっていう人とか、昔やってたんだけどっていう人もOK!!
音楽市場に参加していれば自然になれますから・・・・・
月一で練習日を儲けます。スタジオ代(練習会場)、
譜面コピー代1曲50円程度(私物になりますので)等実費要です。
(スタジオ代は一人500円~1000円程度の割り勘です)
お問い合わせ、ご質問はメッセージまで。
2008年12月04日
ザ・クリスマスソング
メル・トーメの名曲ですね。
僕はトニー・ベネットのカヴァーが好きです。
http://jp.youtube.com/watch?v=aCflkUf6v0U
竹内まりあヴァージョンもご機嫌ですね・・・・・・
http://jp.youtube.com/watch?v=5uX4dHDgjP0&feature=PlayList&p=FAEFC460BDF113E8&index=0
実は僕も歌うんです“The Christmas Song”・・・・・・今年はどこで歌おうかな?
ザ・クリスマスソング
暖炉じゃ栗が焼けているし、きみの鼻はまっかっか
クリスマス・キャロルのコーラスも聞こえてくる
エスキモーみたいに厚着してる人たち
七面鳥とヤドリギは欠かせないってことくらいみんな知ってるよね
ちっちゃい子はおっきく目を輝かせて、今夜はきっと眠れないよ
オモチャを雪車に詰め込んで、サンタはもうこっちに向かってる
子どもたちはみんな、トナカイが本当に空を飛んでいるか見てやろうって思ってる
だから、僕はこのシンプルなフレーズを、1歳から92歳の悪ガキたちに贈ろう
もう何度も聞いて、何度も口にしてきたけど
最後に一言、メリー・クリスマス・トゥ・ユー

某レストランでのキーボードとのドュオ。
出張演奏承ります。
弾き語りから、ビッグバンド、フルオーケストラ、弦楽四重奏も・・・・・
もちろんジャンルは、演歌、GS、フォークソング、ジャズ、クラシックまで。
なにせ、音楽職人集団ですから(笑)。
ちなみに、来年の2月からボランティア演奏“1000”を敢行します!!
ギター弾き語りが基本ですけど、高齢者介護施設、保育園、学校、福祉施設等々・・・・・
高崎市を中心に、県内、近県どこへでも出かけます。
僕はトニー・ベネットのカヴァーが好きです。
http://jp.youtube.com/watch?v=aCflkUf6v0U
竹内まりあヴァージョンもご機嫌ですね・・・・・・
http://jp.youtube.com/watch?v=5uX4dHDgjP0&feature=PlayList&p=FAEFC460BDF113E8&index=0
実は僕も歌うんです“The Christmas Song”・・・・・・今年はどこで歌おうかな?
ザ・クリスマスソング
暖炉じゃ栗が焼けているし、きみの鼻はまっかっか
クリスマス・キャロルのコーラスも聞こえてくる
エスキモーみたいに厚着してる人たち
七面鳥とヤドリギは欠かせないってことくらいみんな知ってるよね
ちっちゃい子はおっきく目を輝かせて、今夜はきっと眠れないよ
オモチャを雪車に詰め込んで、サンタはもうこっちに向かってる
子どもたちはみんな、トナカイが本当に空を飛んでいるか見てやろうって思ってる
だから、僕はこのシンプルなフレーズを、1歳から92歳の悪ガキたちに贈ろう
もう何度も聞いて、何度も口にしてきたけど
最後に一言、メリー・クリスマス・トゥ・ユー

某レストランでのキーボードとのドュオ。
出張演奏承ります。
弾き語りから、ビッグバンド、フルオーケストラ、弦楽四重奏も・・・・・
もちろんジャンルは、演歌、GS、フォークソング、ジャズ、クラシックまで。
なにせ、音楽職人集団ですから(笑)。
ちなみに、来年の2月からボランティア演奏“1000”を敢行します!!
ギター弾き語りが基本ですけど、高齢者介護施設、保育園、学校、福祉施設等々・・・・・
高崎市を中心に、県内、近県どこへでも出かけます。
2008年08月23日
"♪恋の気分で♪
8.15 Jazz Live“恋の気分で”
アンコール2曲目はなぜかこの曲に決めていた・・・・・・
昭和40年代、キャバレーのバンドマン時代から僕のフェヴァリット・ソングのトップだった。
http://jp.youtube.com/watch?v=SpQuzrMl3v0&feature=related
↑勝新太郎がショーで、つまりこんな感じで歌っていた。
まあ、ディーン・マーチンはなんと言ったらいいか「ヘタウマ」かもしれない(笑)。

リハーサル時間ギリギリまで“スタンウェイ”の調律はつづいていた。
ヤノピのKougaさん、仕事の都合とかで“リハ”ギリギリでステージ入り・・・・・・・
僕を含め他のメンバー、タイコのKuwaさん、スーベのAmadaさん、アルトのTakizawaさんはすでに仕上がっていた。
「開場15分前で~す!!」
と、プロデューサーのInazumiさん・・・・・・
2Fの控え室に入るとKougaさんアレンジの『上を向いて歩こう』のチェック。
「ナベさん・・・・・・音、気にしないでそのまま歌ってもらっていいですから」
まあ、ジャズ・コンボはこんなもん・・・・・・
外目には仕上がっている感じだけど、中々リハ通りにはいってない(笑)。
オープニングは“ルート66”だ。
60年代全米のTV番組でヒットした楽曲。ナット・キング・コールが有名。
???・・・・・リハとはイントロが違う。まあテンポはいいがチョイと戸惑いながらも歌いだす・・・・・・
それでもご機嫌なスイング、グルーヴ感で、サビのブレイクもキマリ無事エンディング!!
2曲目は「フライ・ミー・トゥー・ザ・ムーン」。
流石、こなれた感じでピアノのイントロ。サントラの楽曲だが限りなくジャズっぽくイントロ・・・・・・
ボサノバが定番だが、どうしてもフォー・ビートでやってみたかった。
ボカールのフルコーラスが終わるとアルトサックスのアドリブ、ご機嫌だ、今までのアルトサックスにないグルーブ感!!


つづいてピアノのアドリブも、どこかのレコードで聴いたことのあるようなノリ・・・・・
それに、流石、スタンウエイ、音色も飛びっきりである。
ピアノのアドリブが終わると、弾く予定でない、イマイチパッとしない僕のギターのアドリブ・・・・・・
つられるようにしてついのめり込んでしまった(笑)。
「誰かが誰かに恋してる」「嘘は罪」「オン・ア・スローボート・トゥー・チャイナ」「想い出のサンフランシスコ」「ラブレター」、
「我が心のジョージア」「スターダスト」・・・・・・
そして1stステージのラスト、「デイ・バイ・デイ」まで10曲、つい時間をオーバーしてしまったが無事終了。
休憩、15分・・・・・・
それでも、お客さんからはありがたいお褒めのお言葉。
最前列にいた5歳くらいのお嬢ちゃんを連れたパパさん、ママさん・・・・・・
「お子さんあきません?」
と、僕が聞くと、「楽しんでますよ」とのお気遣いが嬉しい・・・・・・
それでも、そのお嬢ちゃん、2ndステージのトップ、軽快なテンポの♪サニー・サイド・オブ・ストリート♪では手拍子まで。
2ndステージはその♪サニー・サイド・オブ・ストリート♪がオープニング。
今、テレビのCFで8ビートで流れているやつ・・・・・・
1930年代のブロードウエイ・ミュージカルでビッグヒットした楽曲だ。

「酒とバラの日々」「イッツ・オンリー・ペーパー・ムーン」「いそしぎ」、そして日本の歌もと言うことで、
井上陽水の「少年時代」、故・坂本九の「上を向いて歩こう」「見上げてごらん夜の星を」・・・・・ラストが「オール・オブ・ミー」。
そこでなんと、アンコールである!!
と思いつつもアンコール曲を2曲用意していたのだが・・・・・・(笑)。
でも、サクラではない本物のアンコールに感激しながら早速、
♪恋人よ我に帰れ♪
そしたらさらにもう一曲とのアンコール!!
"♪恋の気分で♪
しっとりとしたラブソング・・・・・・・
♪恋人よ我に帰れ♪より先にやっておくべきだったのだが、ラストがバラードな楽曲になってしまった。
全22曲、無事終了!!
お客さん、どうやら楽しんでいただけたご様子・・・・・・
帰り際、挨拶に立つ僕に温かいお言葉と、握手、ほんとうに感謝感激。
今月28日、前橋の某カフェで同じメンバーで「オールディーズ」、アメグラのライブをやる。
今月は2本もライブとは、なんともご機嫌な真夏の夜です。
アンコール2曲目はなぜかこの曲に決めていた・・・・・・
昭和40年代、キャバレーのバンドマン時代から僕のフェヴァリット・ソングのトップだった。
http://jp.youtube.com/watch?v=SpQuzrMl3v0&feature=related
↑勝新太郎がショーで、つまりこんな感じで歌っていた。
まあ、ディーン・マーチンはなんと言ったらいいか「ヘタウマ」かもしれない(笑)。

リハーサル時間ギリギリまで“スタンウェイ”の調律はつづいていた。
ヤノピのKougaさん、仕事の都合とかで“リハ”ギリギリでステージ入り・・・・・・・
僕を含め他のメンバー、タイコのKuwaさん、スーベのAmadaさん、アルトのTakizawaさんはすでに仕上がっていた。
「開場15分前で~す!!」
と、プロデューサーのInazumiさん・・・・・・
2Fの控え室に入るとKougaさんアレンジの『上を向いて歩こう』のチェック。
「ナベさん・・・・・・音、気にしないでそのまま歌ってもらっていいですから」
まあ、ジャズ・コンボはこんなもん・・・・・・
外目には仕上がっている感じだけど、中々リハ通りにはいってない(笑)。
オープニングは“ルート66”だ。
60年代全米のTV番組でヒットした楽曲。ナット・キング・コールが有名。
???・・・・・リハとはイントロが違う。まあテンポはいいがチョイと戸惑いながらも歌いだす・・・・・・
それでもご機嫌なスイング、グルーヴ感で、サビのブレイクもキマリ無事エンディング!!
2曲目は「フライ・ミー・トゥー・ザ・ムーン」。
流石、こなれた感じでピアノのイントロ。サントラの楽曲だが限りなくジャズっぽくイントロ・・・・・・
ボサノバが定番だが、どうしてもフォー・ビートでやってみたかった。
ボカールのフルコーラスが終わるとアルトサックスのアドリブ、ご機嫌だ、今までのアルトサックスにないグルーブ感!!


つづいてピアノのアドリブも、どこかのレコードで聴いたことのあるようなノリ・・・・・
それに、流石、スタンウエイ、音色も飛びっきりである。
ピアノのアドリブが終わると、弾く予定でない、イマイチパッとしない僕のギターのアドリブ・・・・・・
つられるようにしてついのめり込んでしまった(笑)。
「誰かが誰かに恋してる」「嘘は罪」「オン・ア・スローボート・トゥー・チャイナ」「想い出のサンフランシスコ」「ラブレター」、
「我が心のジョージア」「スターダスト」・・・・・・
そして1stステージのラスト、「デイ・バイ・デイ」まで10曲、つい時間をオーバーしてしまったが無事終了。
休憩、15分・・・・・・
それでも、お客さんからはありがたいお褒めのお言葉。
最前列にいた5歳くらいのお嬢ちゃんを連れたパパさん、ママさん・・・・・・
「お子さんあきません?」
と、僕が聞くと、「楽しんでますよ」とのお気遣いが嬉しい・・・・・・
それでも、そのお嬢ちゃん、2ndステージのトップ、軽快なテンポの♪サニー・サイド・オブ・ストリート♪では手拍子まで。
2ndステージはその♪サニー・サイド・オブ・ストリート♪がオープニング。
今、テレビのCFで8ビートで流れているやつ・・・・・・
1930年代のブロードウエイ・ミュージカルでビッグヒットした楽曲だ。

「酒とバラの日々」「イッツ・オンリー・ペーパー・ムーン」「いそしぎ」、そして日本の歌もと言うことで、
井上陽水の「少年時代」、故・坂本九の「上を向いて歩こう」「見上げてごらん夜の星を」・・・・・ラストが「オール・オブ・ミー」。
そこでなんと、アンコールである!!
と思いつつもアンコール曲を2曲用意していたのだが・・・・・・(笑)。
でも、サクラではない本物のアンコールに感激しながら早速、
♪恋人よ我に帰れ♪
そしたらさらにもう一曲とのアンコール!!
"♪恋の気分で♪
しっとりとしたラブソング・・・・・・・
♪恋人よ我に帰れ♪より先にやっておくべきだったのだが、ラストがバラードな楽曲になってしまった。
全22曲、無事終了!!
お客さん、どうやら楽しんでいただけたご様子・・・・・・
帰り際、挨拶に立つ僕に温かいお言葉と、握手、ほんとうに感謝感激。
今月28日、前橋の某カフェで同じメンバーで「オールディーズ」、アメグラのライブをやる。
今月は2本もライブとは、なんともご機嫌な真夏の夜です。
2008年02月08日
“マズ・ウマ”
不味(マズ)そうなんだけど・・・美味(ウマ)い。
僕はどちらかというと・・・・・こんな風なのが好きかなっ(笑)。
“マズ・ウマ”の定義。
どうでもいいことだけど――――僕ら世代はその必然性に育ってきた。
「終戦後」と云う言葉を急いで忘れようとしている大人たちの生活文化の中、
「駄菓子屋」に「お好み焼屋」は、僕ら戦後っ子にとって、その“マズ・ウマ”の日常そのものであった。
着色料、添加物たっぷりの駄菓子、“ソースイカ”。
衛生も糸瓜もないサッカリンたっぷりの“舐め紙”とか、
そして極めつけの芸術作品でありながらも、小学校の門の前で屋台を開いていた“お新粉屋”。
親たちは「腹壊すから・・・・・」と、呆れていたが、
下校時ともなると餓鬼連中(僕等)が、テカテカのお下がりの「詰襟」と下駄に足袋で、「5円玉」握り締めて列をなした。
丁度、配給も終わって、そろそろ米穀台帳なしに米が買える時代・・・昭和33年頃か。
焼きそば屋、お新粉屋、飴細工屋、紙芝居と・・・僕の“マズ・ウマ”の原点はそこにあった。
「夜泣きラーメン、食堂」なんて云ったら、盆暮れあるかないかの“御馳走”・・・・・
いや、それどころかチョイトした家族旅行気分(笑)。
ご飯だって“竃”、秋刀魚は“七輪”、
内風呂なんてある家は当然向こう三軒両隣あるはずもない・・・・・銭湯も老若男女、大衆の社交場。
貧乏比べを笑い飛ばしていた「愉快」な時代だった。
便所は、汲み取り式で、肥溜め屋が野菜の肥料集めに一軒一軒回ってく。
梅雨近くになると、役所の消毒車(自動車ではない、リアカー)に消毒液噴霧ポンプを積んで、これまた一軒一軒消毒して周る。
蝿帳に蝿取紙、蚊帳に蚊取り線香・・・・・
「停電」なんて日常茶飯事。
コンメ喰って、腹痛起こして死んじまったり、イボ、ハタケ、タムシ、ハゲ・・・鼻水はたらたら、シモヤケ、アカギレ・・・
今の親が見たら卒倒してしまいそうな健康状態の僕等。
もちろん、よっぽどでなければ「医者」なんて行かない・・・と云うより、当時は殆どが「往診」。
ベーごま、めんこ、が子ども達の経済養成所。
如何にして勝つか、如何にして身上を残すか・・・
“ベーごま”では、持ち駒で一番強いのを“身上丸”と云って財産にしていた。
そんな連中、戦後っ子が、勝負強かったはずなのに今では・・・・・その“経済”も、落ち目とはどうしたことか(笑)。
恐らく、今、閣僚席、永田町に生息する“霊長類”にはそうした体験、そうした時代的経験は無かったのでは。
いつだったか青森選挙区の“田名部、元農水大臣”が云われたとおり、
今日日の政治家“商売、勝負”に経験が全く無い。
貧乏人とは、庶民大衆とは遊ぶことはまかりならん・・・・・
子どものうちから、金勘定するなんて品が悪い・・・・・
と、二世、三世代議士、親から言われ続け大きくなった。
もっとも、大人になってから“労働”もせずに“金勘定”ばっかしているのだから、何おか況やだが・・・・・
因みに、僕は酒も、ケーキも、かりんとうも大好物。
何れも、気持ち悪くなるまで食べたり飲んだりしてしまうのが、女房は気に入らないらしい。
2008年02月04日
クラブ銀座
あの時代、何処をどうバンドの仕事をしたかは分からないが・・・・・・・・
「ニュー東京、ニュージャパン、サクラメント、遺族院」と結構わがままを言わせてもらっていた。
そう――――――クラブ銀座。
通称「バー銀」なんてバンドマンの間ではそう呼ばれていた高崎ではトップクラスの「クラブ」。
その「バー銀」での仕事が突然入った。
「貴族院」のバンマス、金井先生の仕事だ。
今ではどうか分からないが当時はミュージシャン、楽士。
ただ楽器を持って立っているだけでも店に入れば「先生」と呼ばれていた。どうしてだかはよくは分からないが兎に角「先生」なのである。
だいいちこんな僕も先生だったのだから可笑しいことこの上ない。別に“金井先生”をとやかく言っているわけではない。
バンマスの金井先生―――――――――
本業は安中市の磯辺温泉にある「磯辺煎餅屋」の若旦那で、昼間はその磯辺温泉で「磯辺煎餅」を真面目な顔をして焼いている。
もちろんピアノを弾くときが不真面目な顔と言うわけではないが、いつも飄々としていて“煎餅屋の金井さん”と“ピアニストの金井先生”とではその趣の違いが可笑しかった。
その金井さん。キャバレー、クラブを2軒、3軒とかけもちをしていた。
けっこう贔屓筋も多くバンド演奏の時間も金井さんに店が合わせていたようだ・・・・・・・・
どうしても都合がつかなくなると「ラート(トラ、エキストラ)」を入れた。
ある時「Mさん」という金井先生のラートが入った。
その「Mさん」ほとんどがラート専門のピアニストで、昼間は八百屋の引き売りをする愉快な人だった。
ところがその「Mさん」それから10年くらいした時にテレビのワイドショーに出ているではないか。
出ているとは言っても出演していると言う意味ではない。
・・・・・・とある事件の主人公としてである。
「O」とか言う女性演歌歌手をだまくらかしてかなりの額を詐欺したとかしないとかで。
どうやらその歌手「O」が伊香保のホテルに出演している時にピアニストだった「Mさん」にひっかちまったと言うストーリー。
たしかその「Mさん」、バー銀にもラートで入ったことがあった。
「Mさん」は主に渋川、以下保温選のクラブ、ホテルを仕事場にしていた。
「ヨーッ、松原君、来月からバー銀の大矢君のとこ行ってくんねえか」
「バー銀ですか」
「ああ、バー銀だよ。大矢君ひとりのアコーディオンじゃあ色気がねえってママが言うもんでさっ、じゃあトリオでどう・・・・?って言うことで請けたんだ。頼むぞ」
金井先生は若いもんに四の五の言わせない迫力があった。
迫力があったと言ってもそれは、所謂ハイカラな若旦那風情のそれで、別にそっち系と言うことではない。
しかしそっち系もなぜか一目置いていた節のある「バンドマン」の取締役的な存在だった。
その「バー銀」のバンマスは大矢さん。
「バー銀」は高崎の社交界ではそうとうの客筋。高崎どころか県庁のある前橋辺りからもかなりの上客が通い詰めていた。
そんな上客、常連さん相手にタンゴやシャンソンで大矢さんは接待していたらしい。
その時代、まだカラオケの「カ」の字もない頃で、高度成長真っ盛り。どうやら客筋も演歌にジャズということになってきたようで、金井さんに相談したところそれではということに相成ったようなのだ。
大矢さんは身長は180センチをゆうに越えるいかにも芸術家と言った面持ち。その大矢さん・・・・・当然、本職は絵描きさんだ。
大矢さんはピアノを弾いたりアコーディオンを弾いたりと鍵盤ものは器用にこなしていたが、根っからのジャンルが「タンゴ系」なので、困ったことに、ジャズをやっても、演歌をやっても・・・・・・・
なんでもかんでも、「アルゼンチンタンゴ、コンチネンタルタンゴ風」になってしまうのが玉に傷だった。
大矢さん、あの大岡越前の加藤剛をいくらか間の抜けたサラリーマン風にした感じで、
体が大きい分だけ大袈裟に見える演奏スタイルでインテリなファンも多くつかんでいたようだ。
“バー銀の息子”
そんなある日、「バー銀」のママさんが・・・・・・・
「松原君・・・うちの息子、中学生なんだけどバンドを組んでいてうるさいのよ。
家ん中でガチャガチャ、ガチャガチャうるさいの。今度一度遊びがてら見に来てくれない?」
何でも、小学校6年生くらいから友達と「エレキバンド」を組んでいるのだと言う。
もちろん当時「バー銀」と言えば高崎ではトップクラスの「クラブ」。それを経営する家の息子だからそんじょそこらの息子とは息子が違う。
相当裕福な家庭で、高崎から少し離れた所の私立中学へその息子さんは通っているのだった。
そんな訳で、当然他のともだちと言うかバンドのメンバーも同じ私立中学に通うお坊ちゃま君たちだった。
「松原君、ユー、エレキバンドやってたんだよな」と、大矢さん。
「今もやってますよ。まあ、エレキバンドといってもブルース、黒人ブルースなんだけど」
「なんだい―――その黒人ブルースって言うの」
大矢さん、流石に絵描き、芸術家だけあって興味深々なんだが・・・・・
黒人ブルース、どうも突っ込んだ話をしても分かりそうもないので適当に言った。
「ほら・・・・・サッチモなんかの元のスタイルですよ。あの12小節の」
「そっかそっか。兎に角今度行ってあげたら」
大矢さん分かったのか分からないのかそう言った。
その意味では実にシーチョーである。
「ママさん僕も一緒に行きますよ。なっ、松原」
と、大矢さんは言った。
「助かるわ。兎に角うるさくてしょうがないの」
気持ちは良く分かる。よっぽど上手くても練習なんかは「雑音」もいい所。それが始めたてじゃあとんでもない騒ぎである。
暫くした日曜日に大矢さんの車に乗せてもらって「バー銀」のママの家に行った。
「すげぇーなっ、大矢さん邸宅じゃないのここ」
「庭も凄いぞ、松原君」
高崎の市街から少し離れた新興住宅街の中にそれはあった。
近くには工業高校と市立中学、周りには稲刈りを済ませた田圃がまだ残っていた。
〈ガチャガチャ、ドカドガ、ギャんギャン〉
ぐるりと囲まれた塀の中からドラムの音、エレキギター、エレキベースが聴こえて来る。
〈これじゃあ堪らないね〉
と、僕と大矢さん苦笑いを見合わせる。
ママさんに通されたのは庭の広がる10畳ほどの部屋。
「お店でバンドやってもらっている先生。大矢さんと松原君」
ママはその少年たちの誰とにでもなくそう言った。
「こんにちわ、こんにちわ、・・・・・・こんにちわ・・・・・・」
口々にエレキを抱えた少年たちは言った。
「あの大きいのが息子」
と、ママさんが、中学一年生にしては「ヒョロッ」とでかいエレキギターを弾いている少年を僕と大矢さんに紹介した。
見事な楽器が揃っている。流石、「バー銀」の、と感心するしかなかったが、演奏の方は何とも言いようがなかった。
後日談だが、その「バー銀」の息子さん、今を時めく大ミュージシャンに出世している・・・・・・・・
そして今はその「バー銀」はない。
兎に角、キャバレー、クラブ百花繚乱の時代であった。
「ニュー東京、ニュージャパン、サクラメント、遺族院」と結構わがままを言わせてもらっていた。
そう――――――クラブ銀座。
通称「バー銀」なんてバンドマンの間ではそう呼ばれていた高崎ではトップクラスの「クラブ」。
その「バー銀」での仕事が突然入った。
「貴族院」のバンマス、金井先生の仕事だ。
今ではどうか分からないが当時はミュージシャン、楽士。
ただ楽器を持って立っているだけでも店に入れば「先生」と呼ばれていた。どうしてだかはよくは分からないが兎に角「先生」なのである。
だいいちこんな僕も先生だったのだから可笑しいことこの上ない。別に“金井先生”をとやかく言っているわけではない。
バンマスの金井先生―――――――――
本業は安中市の磯辺温泉にある「磯辺煎餅屋」の若旦那で、昼間はその磯辺温泉で「磯辺煎餅」を真面目な顔をして焼いている。
もちろんピアノを弾くときが不真面目な顔と言うわけではないが、いつも飄々としていて“煎餅屋の金井さん”と“ピアニストの金井先生”とではその趣の違いが可笑しかった。
その金井さん。キャバレー、クラブを2軒、3軒とかけもちをしていた。
けっこう贔屓筋も多くバンド演奏の時間も金井さんに店が合わせていたようだ・・・・・・・・
どうしても都合がつかなくなると「ラート(トラ、エキストラ)」を入れた。
ある時「Mさん」という金井先生のラートが入った。
その「Mさん」ほとんどがラート専門のピアニストで、昼間は八百屋の引き売りをする愉快な人だった。
ところがその「Mさん」それから10年くらいした時にテレビのワイドショーに出ているではないか。
出ているとは言っても出演していると言う意味ではない。
・・・・・・とある事件の主人公としてである。
「O」とか言う女性演歌歌手をだまくらかしてかなりの額を詐欺したとかしないとかで。
どうやらその歌手「O」が伊香保のホテルに出演している時にピアニストだった「Mさん」にひっかちまったと言うストーリー。
たしかその「Mさん」、バー銀にもラートで入ったことがあった。
「Mさん」は主に渋川、以下保温選のクラブ、ホテルを仕事場にしていた。
「ヨーッ、松原君、来月からバー銀の大矢君のとこ行ってくんねえか」
「バー銀ですか」
「ああ、バー銀だよ。大矢君ひとりのアコーディオンじゃあ色気がねえってママが言うもんでさっ、じゃあトリオでどう・・・・?って言うことで請けたんだ。頼むぞ」
金井先生は若いもんに四の五の言わせない迫力があった。
迫力があったと言ってもそれは、所謂ハイカラな若旦那風情のそれで、別にそっち系と言うことではない。
しかしそっち系もなぜか一目置いていた節のある「バンドマン」の取締役的な存在だった。
その「バー銀」のバンマスは大矢さん。
「バー銀」は高崎の社交界ではそうとうの客筋。高崎どころか県庁のある前橋辺りからもかなりの上客が通い詰めていた。
そんな上客、常連さん相手にタンゴやシャンソンで大矢さんは接待していたらしい。
その時代、まだカラオケの「カ」の字もない頃で、高度成長真っ盛り。どうやら客筋も演歌にジャズということになってきたようで、金井さんに相談したところそれではということに相成ったようなのだ。
大矢さんは身長は180センチをゆうに越えるいかにも芸術家と言った面持ち。その大矢さん・・・・・当然、本職は絵描きさんだ。
大矢さんはピアノを弾いたりアコーディオンを弾いたりと鍵盤ものは器用にこなしていたが、根っからのジャンルが「タンゴ系」なので、困ったことに、ジャズをやっても、演歌をやっても・・・・・・・
なんでもかんでも、「アルゼンチンタンゴ、コンチネンタルタンゴ風」になってしまうのが玉に傷だった。
大矢さん、あの大岡越前の加藤剛をいくらか間の抜けたサラリーマン風にした感じで、
体が大きい分だけ大袈裟に見える演奏スタイルでインテリなファンも多くつかんでいたようだ。
“バー銀の息子”
そんなある日、「バー銀」のママさんが・・・・・・・
「松原君・・・うちの息子、中学生なんだけどバンドを組んでいてうるさいのよ。
家ん中でガチャガチャ、ガチャガチャうるさいの。今度一度遊びがてら見に来てくれない?」
何でも、小学校6年生くらいから友達と「エレキバンド」を組んでいるのだと言う。
もちろん当時「バー銀」と言えば高崎ではトップクラスの「クラブ」。それを経営する家の息子だからそんじょそこらの息子とは息子が違う。
相当裕福な家庭で、高崎から少し離れた所の私立中学へその息子さんは通っているのだった。
そんな訳で、当然他のともだちと言うかバンドのメンバーも同じ私立中学に通うお坊ちゃま君たちだった。
「松原君、ユー、エレキバンドやってたんだよな」と、大矢さん。
「今もやってますよ。まあ、エレキバンドといってもブルース、黒人ブルースなんだけど」
「なんだい―――その黒人ブルースって言うの」
大矢さん、流石に絵描き、芸術家だけあって興味深々なんだが・・・・・
黒人ブルース、どうも突っ込んだ話をしても分かりそうもないので適当に言った。
「ほら・・・・・サッチモなんかの元のスタイルですよ。あの12小節の」
「そっかそっか。兎に角今度行ってあげたら」
大矢さん分かったのか分からないのかそう言った。
その意味では実にシーチョーである。
「ママさん僕も一緒に行きますよ。なっ、松原」
と、大矢さんは言った。
「助かるわ。兎に角うるさくてしょうがないの」
気持ちは良く分かる。よっぽど上手くても練習なんかは「雑音」もいい所。それが始めたてじゃあとんでもない騒ぎである。
暫くした日曜日に大矢さんの車に乗せてもらって「バー銀」のママの家に行った。
「すげぇーなっ、大矢さん邸宅じゃないのここ」
「庭も凄いぞ、松原君」
高崎の市街から少し離れた新興住宅街の中にそれはあった。
近くには工業高校と市立中学、周りには稲刈りを済ませた田圃がまだ残っていた。
〈ガチャガチャ、ドカドガ、ギャんギャン〉
ぐるりと囲まれた塀の中からドラムの音、エレキギター、エレキベースが聴こえて来る。
〈これじゃあ堪らないね〉
と、僕と大矢さん苦笑いを見合わせる。
ママさんに通されたのは庭の広がる10畳ほどの部屋。
「お店でバンドやってもらっている先生。大矢さんと松原君」
ママはその少年たちの誰とにでもなくそう言った。
「こんにちわ、こんにちわ、・・・・・・こんにちわ・・・・・・」
口々にエレキを抱えた少年たちは言った。
「あの大きいのが息子」
と、ママさんが、中学一年生にしては「ヒョロッ」とでかいエレキギターを弾いている少年を僕と大矢さんに紹介した。
見事な楽器が揃っている。流石、「バー銀」の、と感心するしかなかったが、演奏の方は何とも言いようがなかった。
後日談だが、その「バー銀」の息子さん、今を時めく大ミュージシャンに出世している・・・・・・・・
そして今はその「バー銀」はない。
兎に角、キャバレー、クラブ百花繚乱の時代であった。
2008年02月03日
深々と・・・・・
深々と・・・・・降る雪・・・・・・・
カーテンを開けてびっくり!!
雪国です。
子どもたちの喚声が目に浮かびます。
カーテンを開けてびっくり!!
雪国です。
子どもたちの喚声が目に浮かびます。
2008年01月30日
サーカスの団長
キグレ大サーカス
記憶が確かであれば「沖電(沖電気)」のところの高崎線立体高架橋の工事にかかったのはその頃・・・・・・・
昭和四〇年代初めではなかっただろうか。
当時、沖電の周り中は「田圃」だらけで、昭和四七年頃には、その沖電横の広場で「キグレ大サーカス」の楽団をやったのを憶えている。
「ニュージャパン」のバンドの頃だ。
その時僕はチェンジのコンボでドラムを叩いていた。
バンマスは同い年の「田中」。この田中が器用な奴でフルバンでペットを吹いて、コンボではテナーをやる。
みんなはその田中を「デカタナ」と呼んでいた。デカタナと言うからには「チビタナ」もいた。
その「チビタナ」は同じ田中という姓でフルバンでテナーを吹いていて、「チビタナ」と言うだけあって実際チビだった。
しかし「デカタナ」が当時の成人平均身長を越すほどモノでもなかった。
精々が一メートル六〇センチがそこそこの「デカタナ」なのだから、「チビタナ」は正真正銘の「チビタナ」であったことは言うまでもない。
「あちらのお客さん六七番テーブルの。バンドさんにチップだって・・・はいっ」
社交のお姉さんがバンマスのデカタナにさりげなくそう言って、ちり紙に四角に包まれたものを渡した。
「あとで席に来るようにですってこのバンドさん全員」
ステージの合間にテーブルにつけと言うのだ。
「なべちゃん、プーチ(プーチ)すげえぞ。頭、チェーマン(一万円)だぜ」
「あのクーキャ(客)ヤバクねえか」
スーベの加部が言う。
「ヤバそうだな・・・どっかのザーヤク(ヤクザ)じゃあねえのか・・・・・あれ・・・・・・」
「だって、プーチ貰っちゃたもの・・・・・・こんなに。行かねえ分けにいかねえだろ」
ターギ(ギター)の桑さん。
そのお客さん、遠目にもかなりの体格。
しかも皮製のスーツにハンチングで、おまけに体中を「金ぴか」に飾り立てている。
「オーウッ、座れ座れっ。遠慮すんな」
「こちらのお客さん・・・・・・・ほら、東口に今度来るでしょ。あのキグレ大サーカスの団長さんなんですって」
「オイッ、心配すんなぁ、俺はこれじゃあねえからよ」
「ガハハーーーッ!」と笑いながらそう言うとほっぺの横を「スーッ」と人差し指で切る仕草。
「まあ似たようなもんだけどな」
そう言うとまた、「ガハハー――ッ」と笑い女の子の肩を抱いて上機嫌だった。
そうか・・・・・・サーカスの団長さんか。
やはりこれくらいでないと団長さんやってけないんだろうなと変にみんな感心していた。
「実はよう、今度の高崎の公演でな、みんなにバンドやって貰いてえんだ。楽団連れてきても金かかるし、みんなにやってもらえればアゴアシいらねえしな」
サーカスのバンドか・・・なんか面白そうだな。
約二ヶ月間の公演で間休みなしだと言う。
「給料はずむぞっ、なんたってアゴアシなしだからな。一人七千円でどうだ。七千円」
「ハーセンーーー!」
「なんだ、ハーセンとは?、ええっ、七千円だよ、七千円だって言ってるんだ、分けのわかんねえこと言ってんじゃあねえよ、7千円!!」
その団長、僕らがきょとんしているので、面倒臭そうに言った。
「やっ、やっ、やります、やります―――っ、なぁっみんな」
「オウッ、やってくれるかーーーそいつは助かる。朝九時には入ってくれ、一日3回公演もちろん飯つき。六時にははねるからこっちには問題ねえだろっ。さあ、飲め飲め、さあっ」
そんなこんなで「キグレ大サーカス」の楽団をやることになった。
「九時、六時かぁ、チョッときついけど稼げるな」
当時は同い年の連中、サラリーマンでだいたい月給十万いけば御の字だった。
僕らバンドマンは大体一四、五万は取っていた。昭和四七年頃の話だ。しかし、バンドマンには、もっともな話だがボーナスはないので実際のところはそう大差はなかったのかもしれない。
でもこの辺のバンドマン。当時二十代、三〇代の堅実な奴は当然昼間のゴトシ、結構まともな企業に勤めていて相当な稼ぎがあったようだ。
どう言う訳か、国鉄の職員、ポッポ屋とか消防署の職員が多かった。
文句を言わずに昼間も勤めをすれば結構な収入になったことは確かだった。
そこへ行くと僕らはいい気なもんで「ミュージシャン」を気取った太平楽、後生楽で、好きなことに明け暮れていた青春時代。
それは丁度浅間山荘事件で世の中騒然としていたにもかかわらず考えてみればいい気なもんだったと今になって反省するが時は既に遅い。
それにしても、象の糞やキリンの小便には閉口した。
臭いのなんのって半端じゃあない。特に難しかったのが「空中ブランコ」の決めの時のドラムの「タイミング」。
そのタイミングが外れようもんならえらいいきおいで叱り飛ばされる。
もっとも空中ブランコの兄さん姉さん慣れてるとは言え「命がけ」なのだ。
ところが台本では「外す」はずの「ピエロ」の決めが、決まっちゃったりすると、ピエロの兄さんからお小言。
しかし大変だったけど面白かった「キグレ大サーカス」。
そう誰もが経験できる話ではないが、そう自慢できる話ではないことも確かだ。
今では「コンピュータ」で何でもかんでもやっているらしい。
去年も高崎のキリン麦酒工場跡地にその「キグレ大サーカス」がきた。その大サーカスもその頃の趣は消えていた。
だいいち会場のチケット売りのお姉さんも、芸人さんも「東京ディズニーランド」のそれとほとんど違いがない。
僕らの時代、サーカスと言えば美空ひばりの「角兵衛獅子」ではないが、なんかおどろおどろしさを感じていた。
「言うこと聞かねえとサーカスに売っちゃうぞ!!」
なんて子どもの頃親父に脅かされたものだったが(笑)。
そんな平成の「キグレ大サーカス」のテントの入り口で切符を買いに列に並ぶ子連れの僕がいる。
ふとあの時の団長さんの怖い笑顔がよぎった・・・・・・
記憶が確かであれば「沖電(沖電気)」のところの高崎線立体高架橋の工事にかかったのはその頃・・・・・・・
昭和四〇年代初めではなかっただろうか。
当時、沖電の周り中は「田圃」だらけで、昭和四七年頃には、その沖電横の広場で「キグレ大サーカス」の楽団をやったのを憶えている。
「ニュージャパン」のバンドの頃だ。
その時僕はチェンジのコンボでドラムを叩いていた。
バンマスは同い年の「田中」。この田中が器用な奴でフルバンでペットを吹いて、コンボではテナーをやる。
みんなはその田中を「デカタナ」と呼んでいた。デカタナと言うからには「チビタナ」もいた。
その「チビタナ」は同じ田中という姓でフルバンでテナーを吹いていて、「チビタナ」と言うだけあって実際チビだった。
しかし「デカタナ」が当時の成人平均身長を越すほどモノでもなかった。
精々が一メートル六〇センチがそこそこの「デカタナ」なのだから、「チビタナ」は正真正銘の「チビタナ」であったことは言うまでもない。
「あちらのお客さん六七番テーブルの。バンドさんにチップだって・・・はいっ」
社交のお姉さんがバンマスのデカタナにさりげなくそう言って、ちり紙に四角に包まれたものを渡した。
「あとで席に来るようにですってこのバンドさん全員」
ステージの合間にテーブルにつけと言うのだ。
「なべちゃん、プーチ(プーチ)すげえぞ。頭、チェーマン(一万円)だぜ」
「あのクーキャ(客)ヤバクねえか」
スーベの加部が言う。
「ヤバそうだな・・・どっかのザーヤク(ヤクザ)じゃあねえのか・・・・・あれ・・・・・・」
「だって、プーチ貰っちゃたもの・・・・・・こんなに。行かねえ分けにいかねえだろ」
ターギ(ギター)の桑さん。
そのお客さん、遠目にもかなりの体格。
しかも皮製のスーツにハンチングで、おまけに体中を「金ぴか」に飾り立てている。
「オーウッ、座れ座れっ。遠慮すんな」
「こちらのお客さん・・・・・・・ほら、東口に今度来るでしょ。あのキグレ大サーカスの団長さんなんですって」
「オイッ、心配すんなぁ、俺はこれじゃあねえからよ」
「ガハハーーーッ!」と笑いながらそう言うとほっぺの横を「スーッ」と人差し指で切る仕草。
「まあ似たようなもんだけどな」
そう言うとまた、「ガハハー――ッ」と笑い女の子の肩を抱いて上機嫌だった。
そうか・・・・・・サーカスの団長さんか。
やはりこれくらいでないと団長さんやってけないんだろうなと変にみんな感心していた。
「実はよう、今度の高崎の公演でな、みんなにバンドやって貰いてえんだ。楽団連れてきても金かかるし、みんなにやってもらえればアゴアシいらねえしな」
サーカスのバンドか・・・なんか面白そうだな。
約二ヶ月間の公演で間休みなしだと言う。
「給料はずむぞっ、なんたってアゴアシなしだからな。一人七千円でどうだ。七千円」
「ハーセンーーー!」
「なんだ、ハーセンとは?、ええっ、七千円だよ、七千円だって言ってるんだ、分けのわかんねえこと言ってんじゃあねえよ、7千円!!」
その団長、僕らがきょとんしているので、面倒臭そうに言った。
「やっ、やっ、やります、やります―――っ、なぁっみんな」
「オウッ、やってくれるかーーーそいつは助かる。朝九時には入ってくれ、一日3回公演もちろん飯つき。六時にははねるからこっちには問題ねえだろっ。さあ、飲め飲め、さあっ」
そんなこんなで「キグレ大サーカス」の楽団をやることになった。
「九時、六時かぁ、チョッときついけど稼げるな」
当時は同い年の連中、サラリーマンでだいたい月給十万いけば御の字だった。
僕らバンドマンは大体一四、五万は取っていた。昭和四七年頃の話だ。しかし、バンドマンには、もっともな話だがボーナスはないので実際のところはそう大差はなかったのかもしれない。
でもこの辺のバンドマン。当時二十代、三〇代の堅実な奴は当然昼間のゴトシ、結構まともな企業に勤めていて相当な稼ぎがあったようだ。
どう言う訳か、国鉄の職員、ポッポ屋とか消防署の職員が多かった。
文句を言わずに昼間も勤めをすれば結構な収入になったことは確かだった。
そこへ行くと僕らはいい気なもんで「ミュージシャン」を気取った太平楽、後生楽で、好きなことに明け暮れていた青春時代。
それは丁度浅間山荘事件で世の中騒然としていたにもかかわらず考えてみればいい気なもんだったと今になって反省するが時は既に遅い。
それにしても、象の糞やキリンの小便には閉口した。
臭いのなんのって半端じゃあない。特に難しかったのが「空中ブランコ」の決めの時のドラムの「タイミング」。
そのタイミングが外れようもんならえらいいきおいで叱り飛ばされる。
もっとも空中ブランコの兄さん姉さん慣れてるとは言え「命がけ」なのだ。
ところが台本では「外す」はずの「ピエロ」の決めが、決まっちゃったりすると、ピエロの兄さんからお小言。
しかし大変だったけど面白かった「キグレ大サーカス」。
そう誰もが経験できる話ではないが、そう自慢できる話ではないことも確かだ。
今では「コンピュータ」で何でもかんでもやっているらしい。
去年も高崎のキリン麦酒工場跡地にその「キグレ大サーカス」がきた。その大サーカスもその頃の趣は消えていた。
だいいち会場のチケット売りのお姉さんも、芸人さんも「東京ディズニーランド」のそれとほとんど違いがない。
僕らの時代、サーカスと言えば美空ひばりの「角兵衛獅子」ではないが、なんかおどろおどろしさを感じていた。
「言うこと聞かねえとサーカスに売っちゃうぞ!!」
なんて子どもの頃親父に脅かされたものだったが(笑)。
そんな平成の「キグレ大サーカス」のテントの入り口で切符を買いに列に並ぶ子連れの僕がいる。
ふとあの時の団長さんの怖い笑顔がよぎった・・・・・・
2008年01月29日
キャバレー“ニュー東京”
キャバレー「ニュー東京」は、バンマス(バンドマスター)が山村さん。山村さんはなんでも出身は山口県の呉とか言っていた。
山村さんはピアニストで、ちょうどあの頃は三〇代。バリバリの威勢のいい「バンマス」だった。
連日「ショー」で相当気が入っていたようで少々近寄り難い所があった山村さん。
やはり「貴族院」の金井さんと一緒でその筋も一目置く存在だった・・・・・・・
もっともあの時代夜の街で身体を張って仕事をするにはそれなりの度胸は必要のようだった。
山村さんのバンドはナーテ(テナー)に高橋さん、アルトが国鉄職員の長井さん、パツラ(ペット)がこれまた国鉄職員の絹川さん、スーベ(ベース)が僕とは同級生の加部だった。
ドラムが同じく国鉄職員の秋山さんと、夫々が初見の譜面をこなす「音楽職人」。
そう、そしてチェンジのヤノピには本名は知らないが「ジョージさん」と呼ばれていたお兄さん。
なんでも熊谷から通いで来ていたなんとも面白いピアノの先生だった。
「なべちゃん、シーチョーでいいからさ。シーチョーで。テンポだけ、テンポ」
〈シーチョー・・・ん、なにそれ?〉と、僕は面食らっていた。
ギョーカイ用語、符丁とでも言うのだろうか、なんでもその意味は「調子がいいやつ」の調子、それを「シーチョー」と言い、どうやら「適当に」と言う意味のようだ。
このバンドマンの世界、何でもかんでも逆さまに言う。それもただ逆さまに言うのではなく乗り良く、逆さまに言うのだそうだ。
例えばこんな具合にだ・・・
「今夜、ゴトシ、リーオワしたら、いつものセーミでパイイチ、ミーノする?」
翻訳するとこう言うことになる。
〈今夜仕事が終わったらいつもの店で一杯飲む?〉ってな具合に。
因みに、お金の勘定も「C、D、E、F、G、A、B、オクターブ」でそれに数字の単位をつけて言う。例えば、一万二千四百七五円ならば・・・・・
こんな風になる〈ツェーマン、デーセン、エフヒャク、ハージューゲー〉
最初はなんとも厄介な話だったが慣れてくると面白かった。
「みんな・・・今日からドーヌ(ヌードショー)。曲だけ決めといてメンフ(譜面)、メモでいくから」
バンマス、山村さんはカットグラスのオンザロックを「カラン」っと鳴らしながら言った。
山村さん、朝から飲んでいる。もっとも奥さんがこのニュー東京の近くで小さな止り木だけのバーをやっていて、そこで既にパイイチやっているのがいつものことのようだ。
あっ、この「朝」と言うのはこの業界では店のオープンの頃の時間のことで夕方の5時くらいからのことだ。
したがって、バンドマンの挨拶も夕方、夜だけど、「おはよう」と言うことになる。
〈ドーヌ、メンフ?〉僕がきょとんとしていると―――
「ここじゃあ大体が逆さまに言うんだ。まっ逆さまじゃあないけどね」と、テナーサックスを抱えた高橋さん。
ミュージシャン、楽士とでも言うのかみんなシャイで初対面は素っ気ない。余計なことはほとんど喋らない。
みんなバンマスの話を聞きながらリードを削る長井さん、トランペットのバルブにオイルを点す絹川さん。
それぞれが他の人をてんで気にしていない。
「おはようございま~~~すっ」
「今日から一週間、ミレイさんね。みんなよろしくな」とバンマス。
「よろしくお願いしま~~~~す」
「メンフ・・・・・・?」
「テンポとリズムだけですから。ラストは合図しますから、タイコさんお願いしま~~~~す」
「なべちゃん、合図もらったらバルシン(シンバル)、三つくれる」
バンマスの山村さんが平気な顔して僕に言う。
山村さんは僕のタイコを知っているには知っていたが、僕にしてみればキャバレーと言うかそう言うところで叩くのは高校の時の、伊香保グランドホテルのホール以来だ。
「大丈夫だよなべちゃん。シーチョーでいいからさ、シーチョーで」
〈そんな簡単に言わないで下さいよ・・・と、僕は胸の中でつぶやいていた〉
それを察してか不安そうにしている僕に山村さんは「ニコッ」と、いつものように顎を引いて「カッ」と笑って、「カリン」っとオンザロックを鳴らした。
僕の不安を他所に、相変わらず他のメンバーはもくもくと楽器の手入れに余念がない。
ジョージさん
なんとしても忘れられないのが「ジョージさん」。
気が向くとショーの合間に「日本舞踊」をやる。気が向くというよりはバンドのメンバーが面白半分に乗せるのだが・・・・・・
ジョージさん、自分で日本舞踊の「名取」だとか言っていたが誰も本気にしていないのが可笑しい。
しかしジョージさんそんなことは一切お構いなしなのである。
いざステージに上ってスポットなんて浴びようものならもう止らない。
どう見ても日本舞踊とは程遠いのだがそのジョージさん、ステージせましとばかりに、なよなよと品を造りながら踊りまくる、ちょっとオカマがかった異色なミュージシャンだった。
ジョージさんもちろんヤノピが本職なのだが、ドラムもやる・・・・・・・・
しかしどうもドラムはアンサンブルには合わない。テンポが無茶苦茶に速く、走ってしまう。
ある日のことだ・・・・・・
バンマスの山村さんがたまたまなんかの都合で休み、ジョージさんがヤノピのラートをやった時のことだった。
ナーテの高橋さんがバンマス代行で、
「じゃっ、バイミー、行こうか」
と、言いながらカウントを取る・・・・・・「バイミー」が始まる。
ワンコーラス、ツーコーラス、そしてフォーバスからテーマに戻りさらにワンコーラス。
高橋さんも人が悪い。メンバーみんな高橋さんのたくらみが分かっているから笑いを堪えるのが必死だった。
僕はドラムなのでピアノソロも休むわけには行かない、ずっとリズムを刻んでなくてはならない。ベースもそうだ。
これから始まろうとしている、高橋さん演出の「ジョージショー」メンバーみんな下を向いてクスクス笑いを堪えきれない様子。
「ジョージさん、ソロッ」
と、高橋さん、ジョージさんに合図を送った。
さあ、大変な事になってしまった。ジョージさんがソロを始めるとドラムの時でもそうだが、いったん入っちゃうと止らない。
誰がきっかけをつけようが止らない。ところがそれが面白くてバンドのメンバーみんながあおる。
ジョージさんはその気になってしまっている。顔面を紅潮させ引き攣ったようにして鍵盤を叩いている、まさに叩いている。
そのうちに肘で鍵盤を、終いには脚で鍵盤を叩きだす始末。
突然、
「ギャーーーーン」
と鳴ったかと思うと・・・・・
とうとうジョージさん、普通では切れることのないピアノの弦を飛ばしてしまった。
翌日、ジョージさん山村さんに大目玉を食らったのは言うまでもない。高橋さんを始め他のメンバーもたっぷりと山村さんに絞られた。
ジョージさん・・・・・
「私、知りませ~~~ん」
と言った風で横目でチラッと僕らを見ながら、
「行ってきま~~~す」
と、スタスタスタと、そう言ってステージに上がった。
山村さんの「ニュー東京」は時々「トラ」で僕とか僕のドラムの大先輩の角田さんが秋山さんの代わりをしていた。
「ニュー東京」のショーは歌謡ショー、マジックショー、ヌードショー、漫才。
そうそう、それに「あなたのブルース」の矢吹健さんとか、今は人気者の「長崎の夜は紫」の瀬川映子さん、
「東京の灯よいつまでも」新川二郎さんとか、「若い二人」の北原謙二さんが「ニュー東京ビッグショー」の看板でよく来ていた。
夫々の芸人さん。やはり高崎の駅西口を停まりに数知れない人生劇場があったのではないだろうか。あの時のバンドのみんなも。そして、当然僕もそのひとりだが。
そう言えばジョージさん・・・・・・ジョージさんの本名はやっぱり誰も知らない。
今でいえばその“オネエ族”だった(多分)ジョージさん。
ジョージさんは毎晩、熊谷から通勤していた。
今頃どうしているだろうか・・・ジョージさん。
ご健在なら古希になる頃である。
山村さんはピアニストで、ちょうどあの頃は三〇代。バリバリの威勢のいい「バンマス」だった。
連日「ショー」で相当気が入っていたようで少々近寄り難い所があった山村さん。
やはり「貴族院」の金井さんと一緒でその筋も一目置く存在だった・・・・・・・
もっともあの時代夜の街で身体を張って仕事をするにはそれなりの度胸は必要のようだった。
山村さんのバンドはナーテ(テナー)に高橋さん、アルトが国鉄職員の長井さん、パツラ(ペット)がこれまた国鉄職員の絹川さん、スーベ(ベース)が僕とは同級生の加部だった。
ドラムが同じく国鉄職員の秋山さんと、夫々が初見の譜面をこなす「音楽職人」。
そう、そしてチェンジのヤノピには本名は知らないが「ジョージさん」と呼ばれていたお兄さん。
なんでも熊谷から通いで来ていたなんとも面白いピアノの先生だった。
「なべちゃん、シーチョーでいいからさ。シーチョーで。テンポだけ、テンポ」
〈シーチョー・・・ん、なにそれ?〉と、僕は面食らっていた。
ギョーカイ用語、符丁とでも言うのだろうか、なんでもその意味は「調子がいいやつ」の調子、それを「シーチョー」と言い、どうやら「適当に」と言う意味のようだ。
このバンドマンの世界、何でもかんでも逆さまに言う。それもただ逆さまに言うのではなく乗り良く、逆さまに言うのだそうだ。
例えばこんな具合にだ・・・
「今夜、ゴトシ、リーオワしたら、いつものセーミでパイイチ、ミーノする?」
翻訳するとこう言うことになる。
〈今夜仕事が終わったらいつもの店で一杯飲む?〉ってな具合に。
因みに、お金の勘定も「C、D、E、F、G、A、B、オクターブ」でそれに数字の単位をつけて言う。例えば、一万二千四百七五円ならば・・・・・
こんな風になる〈ツェーマン、デーセン、エフヒャク、ハージューゲー〉
最初はなんとも厄介な話だったが慣れてくると面白かった。
「みんな・・・今日からドーヌ(ヌードショー)。曲だけ決めといてメンフ(譜面)、メモでいくから」
バンマス、山村さんはカットグラスのオンザロックを「カラン」っと鳴らしながら言った。
山村さん、朝から飲んでいる。もっとも奥さんがこのニュー東京の近くで小さな止り木だけのバーをやっていて、そこで既にパイイチやっているのがいつものことのようだ。
あっ、この「朝」と言うのはこの業界では店のオープンの頃の時間のことで夕方の5時くらいからのことだ。
したがって、バンドマンの挨拶も夕方、夜だけど、「おはよう」と言うことになる。
〈ドーヌ、メンフ?〉僕がきょとんとしていると―――
「ここじゃあ大体が逆さまに言うんだ。まっ逆さまじゃあないけどね」と、テナーサックスを抱えた高橋さん。
ミュージシャン、楽士とでも言うのかみんなシャイで初対面は素っ気ない。余計なことはほとんど喋らない。
みんなバンマスの話を聞きながらリードを削る長井さん、トランペットのバルブにオイルを点す絹川さん。
それぞれが他の人をてんで気にしていない。
「おはようございま~~~すっ」
「今日から一週間、ミレイさんね。みんなよろしくな」とバンマス。
「よろしくお願いしま~~~~す」
「メンフ・・・・・・?」
「テンポとリズムだけですから。ラストは合図しますから、タイコさんお願いしま~~~~す」
「なべちゃん、合図もらったらバルシン(シンバル)、三つくれる」
バンマスの山村さんが平気な顔して僕に言う。
山村さんは僕のタイコを知っているには知っていたが、僕にしてみればキャバレーと言うかそう言うところで叩くのは高校の時の、伊香保グランドホテルのホール以来だ。
「大丈夫だよなべちゃん。シーチョーでいいからさ、シーチョーで」
〈そんな簡単に言わないで下さいよ・・・と、僕は胸の中でつぶやいていた〉
それを察してか不安そうにしている僕に山村さんは「ニコッ」と、いつものように顎を引いて「カッ」と笑って、「カリン」っとオンザロックを鳴らした。
僕の不安を他所に、相変わらず他のメンバーはもくもくと楽器の手入れに余念がない。
ジョージさん
なんとしても忘れられないのが「ジョージさん」。
気が向くとショーの合間に「日本舞踊」をやる。気が向くというよりはバンドのメンバーが面白半分に乗せるのだが・・・・・・
ジョージさん、自分で日本舞踊の「名取」だとか言っていたが誰も本気にしていないのが可笑しい。
しかしジョージさんそんなことは一切お構いなしなのである。
いざステージに上ってスポットなんて浴びようものならもう止らない。
どう見ても日本舞踊とは程遠いのだがそのジョージさん、ステージせましとばかりに、なよなよと品を造りながら踊りまくる、ちょっとオカマがかった異色なミュージシャンだった。
ジョージさんもちろんヤノピが本職なのだが、ドラムもやる・・・・・・・・
しかしどうもドラムはアンサンブルには合わない。テンポが無茶苦茶に速く、走ってしまう。
ある日のことだ・・・・・・
バンマスの山村さんがたまたまなんかの都合で休み、ジョージさんがヤノピのラートをやった時のことだった。
ナーテの高橋さんがバンマス代行で、
「じゃっ、バイミー、行こうか」
と、言いながらカウントを取る・・・・・・「バイミー」が始まる。
ワンコーラス、ツーコーラス、そしてフォーバスからテーマに戻りさらにワンコーラス。
高橋さんも人が悪い。メンバーみんな高橋さんのたくらみが分かっているから笑いを堪えるのが必死だった。
僕はドラムなのでピアノソロも休むわけには行かない、ずっとリズムを刻んでなくてはならない。ベースもそうだ。
これから始まろうとしている、高橋さん演出の「ジョージショー」メンバーみんな下を向いてクスクス笑いを堪えきれない様子。
「ジョージさん、ソロッ」
と、高橋さん、ジョージさんに合図を送った。
さあ、大変な事になってしまった。ジョージさんがソロを始めるとドラムの時でもそうだが、いったん入っちゃうと止らない。
誰がきっかけをつけようが止らない。ところがそれが面白くてバンドのメンバーみんながあおる。
ジョージさんはその気になってしまっている。顔面を紅潮させ引き攣ったようにして鍵盤を叩いている、まさに叩いている。
そのうちに肘で鍵盤を、終いには脚で鍵盤を叩きだす始末。
突然、
「ギャーーーーン」
と鳴ったかと思うと・・・・・
とうとうジョージさん、普通では切れることのないピアノの弦を飛ばしてしまった。
翌日、ジョージさん山村さんに大目玉を食らったのは言うまでもない。高橋さんを始め他のメンバーもたっぷりと山村さんに絞られた。
ジョージさん・・・・・
「私、知りませ~~~ん」
と言った風で横目でチラッと僕らを見ながら、
「行ってきま~~~す」
と、スタスタスタと、そう言ってステージに上がった。
山村さんの「ニュー東京」は時々「トラ」で僕とか僕のドラムの大先輩の角田さんが秋山さんの代わりをしていた。
「ニュー東京」のショーは歌謡ショー、マジックショー、ヌードショー、漫才。
そうそう、それに「あなたのブルース」の矢吹健さんとか、今は人気者の「長崎の夜は紫」の瀬川映子さん、
「東京の灯よいつまでも」新川二郎さんとか、「若い二人」の北原謙二さんが「ニュー東京ビッグショー」の看板でよく来ていた。
夫々の芸人さん。やはり高崎の駅西口を停まりに数知れない人生劇場があったのではないだろうか。あの時のバンドのみんなも。そして、当然僕もそのひとりだが。
そう言えばジョージさん・・・・・・ジョージさんの本名はやっぱり誰も知らない。
今でいえばその“オネエ族”だった(多分)ジョージさん。
ジョージさんは毎晩、熊谷から通勤していた。
今頃どうしているだろうか・・・ジョージさん。
ご健在なら古希になる頃である。
2008年01月28日
雨に咲く花
「新潟の『香港』ですか?」
僕は歌手、井上ひろしさんに聞いた――――――
新潟の「香港」とは、新宿「キャバレー風林火山」の姉妹店で新潟ではナンバーワンの規模を誇っていた「社交場」であった。
「いや、新発田です」
そうか・・・・・新発田にもあったのだ。
そう言えば店の名前は忘れたがたしかヤノピ(ピアノ)の松本さん。
年のころは当時で六〇前後だったがなかなかハイカラな爺、いや、ピアニストだった。
その松本さん、たしか新発田からからここ高崎の“ニュージャパン”に来ていた。
松本さん――――――
若い頃は東京でそうとう鳴らしたらしい。
ヤノピの腕は田舎のバーキャレ(キャバレー)では勿体無いほどのグンバツ(抜群)のテクだった。
ビッグバンドと、コンボバンドのチェンジの時の「スターダスト」は今も耳に残っている。
その松本さんが高崎の「ニュージャパン」ができる前はその新発田の新宿風林火山のチェーン店にいたといつか言っていたのを思い出した。
上越線。夜行列車ではないから上野発の最終「長岡行き」だろうか。
その頃は「高崎始発の長岡行き」と云うのも一日に二往復くらいはあった。長岡は距離にして二百キロくらい。
もちろん延々十キロを越える清水トンネル「ループ式トンネル」を縫っての三国越え・・・・・・・
水上から先は流石、日本国有鉄道の誇る「EF60」でも難儀のようで、高崎から長岡までは六時間はかかったようだ。
冬ともなればそれこそ「川端康成」の世界。
「トンネルを抜けたらそこは雪国だった」である。
「三八豪雪」の時は列車は立ち往生、ラッセル車すら身動きできない状態だったと聞く。
何でも長岡あたりでは三メートルを超える積雪があったらしい。
豪雪の季節は別としても・・・・・・
その当時は新潟へは殆ど夜行列車か、長岡終着で、多少の時間待ちをして長岡始発で新潟まで行く。
結構旅も一苦労な時代だったようだ。
「新発田へはよく行くんですか」
「そうね。新宿の店、高崎、新潟、新発田と同じ店だから、ゴトシ(仕事)はビータ(旅)になるね。三週間くらいの」
「三週間もですか」
「そっ、このルートだと富山、金沢、福井と北陸を回ってっていう所かな」
昭和三〇年代にビッグヒット、流行した「雨に咲く花」――――――
僕はショーがはねるとバンドのメンバー、スーベ(ベース)弾きの加部と・・・・・・・
駅近くの「富寿司」にその「雨に咲く花」で一世風靡をした、歌手「井上ひろし」さんを誘った。
衣装かばんにオーケストラ用の譜面と衣装を仕舞、殆ど旅の365日だと云う。
当時の「井上ひろし」さんは、既に「ビッグショー」ではなかったのでジャーマネ(マネージャー)なしの一人旅だ。
「ビッグショー」と言えば、
その頃は勝新太郎、鶴田浩二、ジェリー藤男、島倉千代子、都はるみ、流行では小山ルミなんて言うのもあった。
その合間を縫っての一時代昔、かつての「ビッグ」―――――――
御三家の三田明、西郷輝彦、橋幸夫の「準ビッグ」。
そして往年の「ビッグ」、井上ひろし、松島アキラ、梶光夫、井沢八郎、守屋ひろし、森山加代子、中尾ミエ、園まり、伊東ゆかりなどなど・・・・・・・・
と、結構退きもきらずに往年のスターたちが出演していた時代だった。
しかし「井上ひろし」、流石売れた流行歌手である。着ている物も相当に上等で、テレビで見た時のままの姿。
多分僕より一回りほど年上だろうから三十も半ばではないだろうか・・・・・・・・
ショーのステージもいたって気品があり、ホステスのお姉さん達も十代そこそこの頃は熱烈のファンだったに違いない。
バックで演奏する僕等にもその溜息は漏れ伝わってきた。
「井上ひろし」さんはそれきりだったが、同時期少し送れて「湖愁」で大ヒットを飛ばした、
「スピッツ」のニックネームの「松島アキラ」さんは何度か看板付きの「ショー」で来ていた。
「雨に咲く花」も「湖愁」もイントロとサビは「テナーサックス」の曲。
時代の大歌手を見送りながら「昭和」の高崎駅にそのイントロが過ぎった。
薄煙のような霧雨・・・・・・・
まさに「雨に咲く花」のようなとばりが蒼くかすかにゆれていた。
およばぬこととあきらめました
だけど恋しいあの人よ
ままになるなら今一度
ひと目だけでも逢いたいの
僕は歌手、井上ひろしさんに聞いた――――――
新潟の「香港」とは、新宿「キャバレー風林火山」の姉妹店で新潟ではナンバーワンの規模を誇っていた「社交場」であった。
「いや、新発田です」
そうか・・・・・新発田にもあったのだ。
そう言えば店の名前は忘れたがたしかヤノピ(ピアノ)の松本さん。
年のころは当時で六〇前後だったがなかなかハイカラな爺、いや、ピアニストだった。
その松本さん、たしか新発田からからここ高崎の“ニュージャパン”に来ていた。
松本さん――――――
若い頃は東京でそうとう鳴らしたらしい。
ヤノピの腕は田舎のバーキャレ(キャバレー)では勿体無いほどのグンバツ(抜群)のテクだった。
ビッグバンドと、コンボバンドのチェンジの時の「スターダスト」は今も耳に残っている。
その松本さんが高崎の「ニュージャパン」ができる前はその新発田の新宿風林火山のチェーン店にいたといつか言っていたのを思い出した。
上越線。夜行列車ではないから上野発の最終「長岡行き」だろうか。
その頃は「高崎始発の長岡行き」と云うのも一日に二往復くらいはあった。長岡は距離にして二百キロくらい。
もちろん延々十キロを越える清水トンネル「ループ式トンネル」を縫っての三国越え・・・・・・・
水上から先は流石、日本国有鉄道の誇る「EF60」でも難儀のようで、高崎から長岡までは六時間はかかったようだ。
冬ともなればそれこそ「川端康成」の世界。
「トンネルを抜けたらそこは雪国だった」である。
「三八豪雪」の時は列車は立ち往生、ラッセル車すら身動きできない状態だったと聞く。
何でも長岡あたりでは三メートルを超える積雪があったらしい。
豪雪の季節は別としても・・・・・・
その当時は新潟へは殆ど夜行列車か、長岡終着で、多少の時間待ちをして長岡始発で新潟まで行く。
結構旅も一苦労な時代だったようだ。
「新発田へはよく行くんですか」
「そうね。新宿の店、高崎、新潟、新発田と同じ店だから、ゴトシ(仕事)はビータ(旅)になるね。三週間くらいの」
「三週間もですか」
「そっ、このルートだと富山、金沢、福井と北陸を回ってっていう所かな」
昭和三〇年代にビッグヒット、流行した「雨に咲く花」――――――
僕はショーがはねるとバンドのメンバー、スーベ(ベース)弾きの加部と・・・・・・・
駅近くの「富寿司」にその「雨に咲く花」で一世風靡をした、歌手「井上ひろし」さんを誘った。
衣装かばんにオーケストラ用の譜面と衣装を仕舞、殆ど旅の365日だと云う。
当時の「井上ひろし」さんは、既に「ビッグショー」ではなかったのでジャーマネ(マネージャー)なしの一人旅だ。
「ビッグショー」と言えば、
その頃は勝新太郎、鶴田浩二、ジェリー藤男、島倉千代子、都はるみ、流行では小山ルミなんて言うのもあった。
その合間を縫っての一時代昔、かつての「ビッグ」―――――――
御三家の三田明、西郷輝彦、橋幸夫の「準ビッグ」。
そして往年の「ビッグ」、井上ひろし、松島アキラ、梶光夫、井沢八郎、守屋ひろし、森山加代子、中尾ミエ、園まり、伊東ゆかりなどなど・・・・・・・・
と、結構退きもきらずに往年のスターたちが出演していた時代だった。
しかし「井上ひろし」、流石売れた流行歌手である。着ている物も相当に上等で、テレビで見た時のままの姿。
多分僕より一回りほど年上だろうから三十も半ばではないだろうか・・・・・・・・
ショーのステージもいたって気品があり、ホステスのお姉さん達も十代そこそこの頃は熱烈のファンだったに違いない。
バックで演奏する僕等にもその溜息は漏れ伝わってきた。
「井上ひろし」さんはそれきりだったが、同時期少し送れて「湖愁」で大ヒットを飛ばした、
「スピッツ」のニックネームの「松島アキラ」さんは何度か看板付きの「ショー」で来ていた。
「雨に咲く花」も「湖愁」もイントロとサビは「テナーサックス」の曲。
時代の大歌手を見送りながら「昭和」の高崎駅にそのイントロが過ぎった。
薄煙のような霧雨・・・・・・・
まさに「雨に咲く花」のようなとばりが蒼くかすかにゆれていた。
およばぬこととあきらめました
だけど恋しいあの人よ
ままになるなら今一度
ひと目だけでも逢いたいの
2008年01月27日
“雲助バンド”その下
弘前「凱旋コンサート」
キサブローさんが故郷の弘前でコンサートをするのだと云う。
そこで、メンバー全員で弘前まで行く事になった。
上野発の夜行列車「いなほ」。
東北本線を途中から奥羽本線に行くやつだ。上野の18番線で待ち合わせた。
弘前までは12時間くらいかかっただろうか、兎に角結構な時間を列車に揺られた。
弘前に着くとキサブローさんの友人達が出迎えていた。
キサブローさんはその友達たちと懐かしそうに話し込んでいる。
同行したキサブローさんの彼女の方はやはり出迎えた友人と「じゃぁ」と言って僕等と別れた。
早速、キサブローの友人が用意してくれた車に乗って「弘前市民会館」に向かった。
コンサート会場の弘前市民会館は弘前城祉の公園の中にあった。
弘前市民会館では既に仕込みが忙しそうに立ち上がっていた。
「雲助バンド」の前に何バンドかが演奏した。雲助バンドとしては初めての大ホール。
志保君がステージ所狭しと撥ねるように歌う。
「せんと~~~で」
キサブロー作詞作曲の「銭湯ブルース」。
志保君がひょろひょろな身体をくねらせるようにして歌えば、キサブローさんのSGと丸山さんのプレシジョンが絡む。
おスエちゃんはリフ専門に徹し、相変わらずシャイなステージプレイ。
打上げは弘前の「りんご市場」から右方向の大通り、堀川沿いの「ロック喫茶」。斜前にはカワイ楽器弘前店があった。
しかしなんと云うのか、人間の運命とは実に「面白いものである」と感じた・・・・・・まあ、少々大袈裟だが、まさにその『運命』がこんな僕であったのである。
実はその後の僕の人生でのことだ。
そもそもそう云ったきっかけで今日も音楽の端くれで生活をしている僕だが・・・・・・
34の時から「シェクター・ギター・リサーチ」と云うギターメーカーの仕事をはじめていた。
その弘前ロック喫茶「R」。
僕がシェクターの営業で青森、弘前と回る途中、大凡20年前の記憶が蘇ったのだった。
たしかそのロック喫茶「R」のあった所・・・・・・
そう、当然「あった所」と云うからにはその昭和63年頃には既に「R」は無かったのだが、
その「R」の後に、LMショップ「タクト」があった。
小西さんと云う方が経営していた。あまりその店とは取引は無かったが、どうも懐かしくて時折、「弘前」には旅の宿をとった。
もちろんもうひとつの楽しみ、津軽三味線のライブハウス「山唄」を堪能する為もあったが。
しかしその都度そのロック喫茶「R」の話を当地の方に尋ねても、残念だが詳細は不明であった。
しかし、その「タクト」楽器店の間口と外観は当時を偲ばせるのに充分なものが感じられた・・・・・・
なんて格好のいいことを言っても昭和47年にたったの一度行ったきりなので、
それは僕のたんなる思い込みの激しさからかも知れないので記憶の真贋に、情けない話だがいささか自信が無い。
弘前での宿泊はキサブローさんの友人の「成田さん」の家。林檎園を大きくやっている家だった。
夜中に抜け出してりんごを盗みに行ったような憶えがある〈すみませんでした〉。
「雲助バンド」。
キサブロー凱旋コンサートもそれなりに弘前では受けたようだったが・・・・・・
「雲助バンド」はその後の「中野公会堂」のコンサートを最後に解散と云う事になったようだ。
なったようだと云うのは、どうもおスエちゃんも「日本語」のブルースに抵抗があったらしく、
練習やら本番の話があってもあのお末ちゃんの性格上煮え切らない態度というか、はっきりしない態度で断りつづけていたようだ。
「松さん、雲助、辞めようと思うんだ」
と、ぽつんともらした。
正直、あの頃どっぷりと「黒人ブルース」にのめり込んで行ったおスエちゃん。
かと云ってブルースバンドとは云ってもブルースバンドそのものが「マイナー」な存在でようやく関西から「ウエストブルースバンド」が注目されてきた頃。
東京では、「竹田和夫とクリエイション」とか、柳ジョージの「パワーハウス」とか、どちらかと云うと「白人系」のブルースで学園祭なんかでも受けていた。
そう云えば、東大本郷キャンパスの学園祭でも「雲助バンド」として出たことがあった。
もちろん「クリエイション」、「頭脳警察」、「カルメン・マキ&OZ」なんて云うバンドが群を抜いていたのだったが。
70年代のハードロックが全盛を迎える頃だ。「GFR」やら、「DP」等々。
まあ、黒人ブルースは今風に言えば「オタク系」。別に今風も無く、今でも「オタク」なんだろうが(笑)。
しかし、おスエちゃん・・・・・・
あのころ新宿の帝都無線でバイトをしていた丸山さんを介してフェンダーのストラトキャスターとツインリバーブを買ったばかりでやる気満々だったのに・・・・・・
だが相変わらずの、末っ子の性質で我侭。
やはり気が向かないとなったらすっぱりと「雲助バンド」を辞めてしまった。
その「雲助バンド」の、バンドリーダーのキサブローさん・・・・・
あれから30余年、“レコ大”を受賞するほどの大作曲家に変身していた。
そういえば、キサブローさんの楽曲、どことなく「雲助バンド」の匂いがするの可笑しい。
キサブローさんが故郷の弘前でコンサートをするのだと云う。
そこで、メンバー全員で弘前まで行く事になった。
上野発の夜行列車「いなほ」。
東北本線を途中から奥羽本線に行くやつだ。上野の18番線で待ち合わせた。
弘前までは12時間くらいかかっただろうか、兎に角結構な時間を列車に揺られた。
弘前に着くとキサブローさんの友人達が出迎えていた。
キサブローさんはその友達たちと懐かしそうに話し込んでいる。
同行したキサブローさんの彼女の方はやはり出迎えた友人と「じゃぁ」と言って僕等と別れた。
早速、キサブローの友人が用意してくれた車に乗って「弘前市民会館」に向かった。
コンサート会場の弘前市民会館は弘前城祉の公園の中にあった。
弘前市民会館では既に仕込みが忙しそうに立ち上がっていた。
「雲助バンド」の前に何バンドかが演奏した。雲助バンドとしては初めての大ホール。
志保君がステージ所狭しと撥ねるように歌う。
「せんと~~~で」
キサブロー作詞作曲の「銭湯ブルース」。
志保君がひょろひょろな身体をくねらせるようにして歌えば、キサブローさんのSGと丸山さんのプレシジョンが絡む。
おスエちゃんはリフ専門に徹し、相変わらずシャイなステージプレイ。
打上げは弘前の「りんご市場」から右方向の大通り、堀川沿いの「ロック喫茶」。斜前にはカワイ楽器弘前店があった。
しかしなんと云うのか、人間の運命とは実に「面白いものである」と感じた・・・・・・まあ、少々大袈裟だが、まさにその『運命』がこんな僕であったのである。
実はその後の僕の人生でのことだ。
そもそもそう云ったきっかけで今日も音楽の端くれで生活をしている僕だが・・・・・・
34の時から「シェクター・ギター・リサーチ」と云うギターメーカーの仕事をはじめていた。
その弘前ロック喫茶「R」。
僕がシェクターの営業で青森、弘前と回る途中、大凡20年前の記憶が蘇ったのだった。
たしかそのロック喫茶「R」のあった所・・・・・・
そう、当然「あった所」と云うからにはその昭和63年頃には既に「R」は無かったのだが、
その「R」の後に、LMショップ「タクト」があった。
小西さんと云う方が経営していた。あまりその店とは取引は無かったが、どうも懐かしくて時折、「弘前」には旅の宿をとった。
もちろんもうひとつの楽しみ、津軽三味線のライブハウス「山唄」を堪能する為もあったが。
しかしその都度そのロック喫茶「R」の話を当地の方に尋ねても、残念だが詳細は不明であった。
しかし、その「タクト」楽器店の間口と外観は当時を偲ばせるのに充分なものが感じられた・・・・・・
なんて格好のいいことを言っても昭和47年にたったの一度行ったきりなので、
それは僕のたんなる思い込みの激しさからかも知れないので記憶の真贋に、情けない話だがいささか自信が無い。
弘前での宿泊はキサブローさんの友人の「成田さん」の家。林檎園を大きくやっている家だった。
夜中に抜け出してりんごを盗みに行ったような憶えがある〈すみませんでした〉。
「雲助バンド」。
キサブロー凱旋コンサートもそれなりに弘前では受けたようだったが・・・・・・
「雲助バンド」はその後の「中野公会堂」のコンサートを最後に解散と云う事になったようだ。
なったようだと云うのは、どうもおスエちゃんも「日本語」のブルースに抵抗があったらしく、
練習やら本番の話があってもあのお末ちゃんの性格上煮え切らない態度というか、はっきりしない態度で断りつづけていたようだ。
「松さん、雲助、辞めようと思うんだ」
と、ぽつんともらした。
正直、あの頃どっぷりと「黒人ブルース」にのめり込んで行ったおスエちゃん。
かと云ってブルースバンドとは云ってもブルースバンドそのものが「マイナー」な存在でようやく関西から「ウエストブルースバンド」が注目されてきた頃。
東京では、「竹田和夫とクリエイション」とか、柳ジョージの「パワーハウス」とか、どちらかと云うと「白人系」のブルースで学園祭なんかでも受けていた。
そう云えば、東大本郷キャンパスの学園祭でも「雲助バンド」として出たことがあった。
もちろん「クリエイション」、「頭脳警察」、「カルメン・マキ&OZ」なんて云うバンドが群を抜いていたのだったが。
70年代のハードロックが全盛を迎える頃だ。「GFR」やら、「DP」等々。
まあ、黒人ブルースは今風に言えば「オタク系」。別に今風も無く、今でも「オタク」なんだろうが(笑)。
しかし、おスエちゃん・・・・・・
あのころ新宿の帝都無線でバイトをしていた丸山さんを介してフェンダーのストラトキャスターとツインリバーブを買ったばかりでやる気満々だったのに・・・・・・
だが相変わらずの、末っ子の性質で我侭。
やはり気が向かないとなったらすっぱりと「雲助バンド」を辞めてしまった。
その「雲助バンド」の、バンドリーダーのキサブローさん・・・・・
あれから30余年、“レコ大”を受賞するほどの大作曲家に変身していた。
そういえば、キサブローさんの楽曲、どことなく「雲助バンド」の匂いがするの可笑しい。
2008年01月22日
ヤキトリ“ささき”
ぽつんと赤提灯が見える。
その頃は電車区とかになっていたその辺り。
昭和の三〇年代中頃までは本線を挟んで“SL”がターンテーブルの上で汽笛と共にもくもくと煙を吹き上げていた。
重厚長大な時代。あるものひとつひとつがとてつもなくおおきく映った。
もっともそれは僕が子どもだったせいもあるのかも知れないが、
兎に角大人たちは忙しくしていたのが今でも脳裏に焼きついている。
その『赤提灯』には“ささき”と書いてある。
暖簾を背中に垂らして開いた戸口からは夕方になると勤め帰りの客がはみ出している。
古くからの客に言わせると、それを“コーラス状態”と言うのだそうだ。
斜に構えて椅子に座るからそう云うのだそうだが丁度“コーラスグループ”が唄う時のように。
“ささき”の客筋はと云えばポッポやにはじまって職工、
当時は少し北側にある「高崎鉄道管理局」から向こうは、東京ガス、古河鉱業、昭和電工、
日清製粉、小島機械、そしてそれらを取巻くように下請けの工場が犇きあっていたのだった。
所謂、労働者。筋骨隆々とした汗の匂いをぷんぷんさせた戦後のひと時代を彩った大衆の街の音。
この時代に思えばそれは粗野ではあるが今のような白けた冷たさはなかったような気がする。
“ささき”の品書きには「ヤキトリ」と「お新香」しかない。それも、「ヤキトリ」とは云うものの「鶏」ではなく「豚モツ」である。
「ヒモ、レバー、タン、ハツ、カシラ、コブクロ、ナンコツ」。
それの、塩かタレ。
“ささき”は、女将さん、ママさんと言うよりは、どちらかと言うと「お母さん」の趣。
詳しくは聞いたことは無いが何でも2代目で、出身は「越中富山」だと聞いていた。
お手伝いのお姉さんも、お姉さんと言うよりは「お姉ちゃん」。
その「ささき」が再開発で通町に移転するまで、「お姉ちゃん」も何代か替っている。
しかし、源氏名かどうかは知らないが、何れも「ちーちゃん」であったと記憶する。
また、夫々の「ちーちゃん」が姉妹であるかのようによく似ていて、
代々の「ちーちゃん」が共に「やきとり屋」の趣ではない。
がしかしその趣ではないにしてみてもやはりそこは「ささき」の「ちーちゃん」なのである。
これは万人の譲る所である。
ママさんと云うよりは「お母さん」。
そのお母さんはもの優しい言葉遣いで得もいえぬ面持ちで酔客を心地好くさせる。
中には酒癖の悪い客も時にはいる。
「まー怖い―――いけませんよ。もうお出ししません」
と、その客が四の五の言おうと。
「はい、お会計。早くお帰んなさい!!」
と捌かれてしまう。
代々の「ちーちゃん」も口数は至って少ない。もっとも、夕方五時も間も無く「満席」。
それでさっきの「コーラス」状態で二〇人近くがカウンターに集るとそこは既に、まるで「すずめの学校」なのだ。
それも、柱時計が十一時を打つ頃には黙っていても閉店を知らされる。
それもそのはず「高崎線、上信越線、両毛線、八高線、上信」と最終電車が無情にも最後の串を取り上げる。
誰が言い出すでもなく、「イッパイ行くかっ!」
僕にとっての“ささき”の始まりははっきりはしないが、
その酒飲み人生のとっつきが“ささき”であったことは間違いがない。
ジャパンの仕事が休みの時によくバンド仲間と連れ立って“ささき”、“中熊”、“一力”そして上がりが“富寿司”だった。
「今度立ち退きでお店は続けたいんだけどね・・・・・・・」
とお母さん。
そう云えば、駅前の再開発でその「ささき」の直ぐ前にスーパー「ダイエー」と「高島屋」が出来ていた。
当然駅周辺の様子も一変し、既に“ささき”の裏に広がった「電車区」も既に双葉町の方へ移っていた。
長女がオシメをしている頃もよく行った。
まるい椅子を二つほどつなげてその長女のオシメを替えたのが懐かしい。
その長女、昭和51年生まれだから今から30年も昔の事だ。
「しばらくお休みするけどまた開けたらお出かけください」
どこまでも丁寧な口調。
保健所の営業許可証には「佐々木真一」と書かれていた。
「佐々木真一」――― どこかで聞いた事がある名前だ。そうだ確かそんな名前の歌手がいた。
いつかお母さんに聞いた事があった。
「佐々木真一って息子さん?」
「そうなの息子。今度のお店の時は息子にやってもらう事にしてるの」
その後、暫くは僕も仕事で東京へ通ったりしていて、
いつも夜遅く今はない“ささき”の前を通り過ぎながら後ろに「その」音を聞いて“ささき”を懐かしんでいた。
その頃は電車区とかになっていたその辺り。
昭和の三〇年代中頃までは本線を挟んで“SL”がターンテーブルの上で汽笛と共にもくもくと煙を吹き上げていた。
重厚長大な時代。あるものひとつひとつがとてつもなくおおきく映った。
もっともそれは僕が子どもだったせいもあるのかも知れないが、
兎に角大人たちは忙しくしていたのが今でも脳裏に焼きついている。
その『赤提灯』には“ささき”と書いてある。
暖簾を背中に垂らして開いた戸口からは夕方になると勤め帰りの客がはみ出している。
古くからの客に言わせると、それを“コーラス状態”と言うのだそうだ。
斜に構えて椅子に座るからそう云うのだそうだが丁度“コーラスグループ”が唄う時のように。
“ささき”の客筋はと云えばポッポやにはじまって職工、
当時は少し北側にある「高崎鉄道管理局」から向こうは、東京ガス、古河鉱業、昭和電工、
日清製粉、小島機械、そしてそれらを取巻くように下請けの工場が犇きあっていたのだった。
所謂、労働者。筋骨隆々とした汗の匂いをぷんぷんさせた戦後のひと時代を彩った大衆の街の音。
この時代に思えばそれは粗野ではあるが今のような白けた冷たさはなかったような気がする。
“ささき”の品書きには「ヤキトリ」と「お新香」しかない。それも、「ヤキトリ」とは云うものの「鶏」ではなく「豚モツ」である。
「ヒモ、レバー、タン、ハツ、カシラ、コブクロ、ナンコツ」。
それの、塩かタレ。
“ささき”は、女将さん、ママさんと言うよりは、どちらかと言うと「お母さん」の趣。
詳しくは聞いたことは無いが何でも2代目で、出身は「越中富山」だと聞いていた。
お手伝いのお姉さんも、お姉さんと言うよりは「お姉ちゃん」。
その「ささき」が再開発で通町に移転するまで、「お姉ちゃん」も何代か替っている。
しかし、源氏名かどうかは知らないが、何れも「ちーちゃん」であったと記憶する。
また、夫々の「ちーちゃん」が姉妹であるかのようによく似ていて、
代々の「ちーちゃん」が共に「やきとり屋」の趣ではない。
がしかしその趣ではないにしてみてもやはりそこは「ささき」の「ちーちゃん」なのである。
これは万人の譲る所である。
ママさんと云うよりは「お母さん」。
そのお母さんはもの優しい言葉遣いで得もいえぬ面持ちで酔客を心地好くさせる。
中には酒癖の悪い客も時にはいる。
「まー怖い―――いけませんよ。もうお出ししません」
と、その客が四の五の言おうと。
「はい、お会計。早くお帰んなさい!!」
と捌かれてしまう。
代々の「ちーちゃん」も口数は至って少ない。もっとも、夕方五時も間も無く「満席」。
それでさっきの「コーラス」状態で二〇人近くがカウンターに集るとそこは既に、まるで「すずめの学校」なのだ。
それも、柱時計が十一時を打つ頃には黙っていても閉店を知らされる。
それもそのはず「高崎線、上信越線、両毛線、八高線、上信」と最終電車が無情にも最後の串を取り上げる。
誰が言い出すでもなく、「イッパイ行くかっ!」
僕にとっての“ささき”の始まりははっきりはしないが、
その酒飲み人生のとっつきが“ささき”であったことは間違いがない。
ジャパンの仕事が休みの時によくバンド仲間と連れ立って“ささき”、“中熊”、“一力”そして上がりが“富寿司”だった。
「今度立ち退きでお店は続けたいんだけどね・・・・・・・」
とお母さん。
そう云えば、駅前の再開発でその「ささき」の直ぐ前にスーパー「ダイエー」と「高島屋」が出来ていた。
当然駅周辺の様子も一変し、既に“ささき”の裏に広がった「電車区」も既に双葉町の方へ移っていた。
長女がオシメをしている頃もよく行った。
まるい椅子を二つほどつなげてその長女のオシメを替えたのが懐かしい。
その長女、昭和51年生まれだから今から30年も昔の事だ。
「しばらくお休みするけどまた開けたらお出かけください」
どこまでも丁寧な口調。
保健所の営業許可証には「佐々木真一」と書かれていた。
「佐々木真一」――― どこかで聞いた事がある名前だ。そうだ確かそんな名前の歌手がいた。
いつかお母さんに聞いた事があった。
「佐々木真一って息子さん?」
「そうなの息子。今度のお店の時は息子にやってもらう事にしてるの」
その後、暫くは僕も仕事で東京へ通ったりしていて、
いつも夜遅く今はない“ささき”の前を通り過ぎながら後ろに「その」音を聞いて“ささき”を懐かしんでいた。
2008年01月21日
イミテーション・ジパング(笑)。
僕の知り合いに結婚式専門の“外国人牧師”がいる。
LA生まれで20代・・・・・学生の頃から世界中を旅しながら終の棲家が日本。そしてここだと言う。
奥さんもアメリカ人で息子が二人。長男は香港で生まれ次男は日本で生まれたとか言っていた。
息子はともに日本語は“ぺらぺら”で長男はLAの大学へ、次男はここの私学の3年生・・・・・・
もちろん小中と市立で、日本の教科書で義務教育を終えている。
夫婦で英会話の先生をやって、旦那の方は結婚式の“牧師”もやって結構いい収入になっているようだ。
そんな彼がどうしても判らないことがあるとさっきやってきて今帰ったところ。
実はその結婚式での牧師の仕事のことなのだが・・・・・
その結婚式場のパンフレット。それにその結婚式場の大きな野立て看板。
そこに写っているのは全部、いわゆる“外人”。
さすがに、文金高島田の写真は日本人だが、あとはスタッフも何から何まで外人モデル。
絶対にありえない状況なのにいわゆる“商品宣伝”にそれを使っている。
そういえばデパートの高級ブランド・・・・・・
ベビー服、子供服まで、モデルはほとんどが外人の子ども。
でも、お客さんは結婚式場もデパートもみんな日本人。
それなのに商品宣伝はほとんどが外人で、それもいわゆる“アメリカ人”で、間違っても他の“外人”はいない。
そのことについて「お前は“日本人”としてどう思う・・・・・・?」
まあそんな深刻なことではないのだがと・・・・・・
実はテレビの番組で結婚式専門の“外人アルバイト牧師”というのが問題になっていて、
彼自身はその身分は教会には属さないが宣教師のライセンスのようなものを持っていて、
そのことで日本でも、また他の国でも身分は保証されているのだと言うのだが・・・・・
多くの結婚式専門牧師はほとんどがアマチュアで、
日本人がアメリカで“坊さん”の真似をしてお経を上げているようなものだと・・・・・・
結局、そのことについての結論が出ないまま、
日本と言う国は昔から外来文化で成立っていて、特に明治と言う時代以降は似合う似合わないは別として、洋行帰りとか、
その昔なんて、袴に革靴とか、着流しにシャッポとか・・・・・・
実はアイデンティティなんて端からあるわけじゃあないんだと言う話になって大笑いした。
「お前の“Everybody Loves Somebody”はディーン・マーチンにそっくりだ。
話す英語はダメなのに、歌う英語はネイティブだ」
と変な感心をされたが、結局歌真似ということだろうか(笑)。
しかし、一番わからないのが、クリスチャンでもないのに神父の僕を前に神に誓うカップル・・・・・・・
誓わせてしまって本当にいいのかと心配になることもあるとか。
それに2回も衣装を変えるシステムとか、和服でウエディングケーキカットとか。
まあ、あの日本の「結婚式」という儀式ほど無茶苦茶なものはないという。
もっとも、生まれてお宮参り、七五三では最近はオシャレなドレスで千歳飴・・・・・
成人式ではさて何処、結婚式ではそれこそ宗教儀式のアラカルト。
いよいよ葬式では、仏前、神前、教会で・・・・・まあこちらの方は当人はあの世でもう何もわからないのだからいいけれど。
言われてみると、僕もアルバムを見ながら可笑しさがこみ上げてきてしまった。
しかし、それになんとカネのかかったこと、かかること・・・・・・
そんな話しをしたら、その牧師、西洋では考えられない・・・・・
「シンジラレナ~~~イ!!」
と言って、驚いていました。
まあ、いろいろこの国偽装があるけど・・・・・
自分自身が、一番その偽装、人生の儀式の中で何の疑問ももたずにやっていたんですね(笑)。
クリスマスに、お正月、バレンタインデーに、桃の節句に端午の節句・・・・・
最近ではハロウィンまでスーパーではカボチャを並べて騒いでる。
節操がないというか、何でもかんでも“舶来症”には考えさせられます。
LA生まれで20代・・・・・学生の頃から世界中を旅しながら終の棲家が日本。そしてここだと言う。
奥さんもアメリカ人で息子が二人。長男は香港で生まれ次男は日本で生まれたとか言っていた。
息子はともに日本語は“ぺらぺら”で長男はLAの大学へ、次男はここの私学の3年生・・・・・・
もちろん小中と市立で、日本の教科書で義務教育を終えている。
夫婦で英会話の先生をやって、旦那の方は結婚式の“牧師”もやって結構いい収入になっているようだ。
そんな彼がどうしても判らないことがあるとさっきやってきて今帰ったところ。
実はその結婚式での牧師の仕事のことなのだが・・・・・
その結婚式場のパンフレット。それにその結婚式場の大きな野立て看板。
そこに写っているのは全部、いわゆる“外人”。
さすがに、文金高島田の写真は日本人だが、あとはスタッフも何から何まで外人モデル。
絶対にありえない状況なのにいわゆる“商品宣伝”にそれを使っている。
そういえばデパートの高級ブランド・・・・・・
ベビー服、子供服まで、モデルはほとんどが外人の子ども。
でも、お客さんは結婚式場もデパートもみんな日本人。
それなのに商品宣伝はほとんどが外人で、それもいわゆる“アメリカ人”で、間違っても他の“外人”はいない。
そのことについて「お前は“日本人”としてどう思う・・・・・・?」
まあそんな深刻なことではないのだがと・・・・・・
実はテレビの番組で結婚式専門の“外人アルバイト牧師”というのが問題になっていて、
彼自身はその身分は教会には属さないが宣教師のライセンスのようなものを持っていて、
そのことで日本でも、また他の国でも身分は保証されているのだと言うのだが・・・・・
多くの結婚式専門牧師はほとんどがアマチュアで、
日本人がアメリカで“坊さん”の真似をしてお経を上げているようなものだと・・・・・・
結局、そのことについての結論が出ないまま、
日本と言う国は昔から外来文化で成立っていて、特に明治と言う時代以降は似合う似合わないは別として、洋行帰りとか、
その昔なんて、袴に革靴とか、着流しにシャッポとか・・・・・・
実はアイデンティティなんて端からあるわけじゃあないんだと言う話になって大笑いした。
「お前の“Everybody Loves Somebody”はディーン・マーチンにそっくりだ。
話す英語はダメなのに、歌う英語はネイティブだ」
と変な感心をされたが、結局歌真似ということだろうか(笑)。
しかし、一番わからないのが、クリスチャンでもないのに神父の僕を前に神に誓うカップル・・・・・・・
誓わせてしまって本当にいいのかと心配になることもあるとか。
それに2回も衣装を変えるシステムとか、和服でウエディングケーキカットとか。
まあ、あの日本の「結婚式」という儀式ほど無茶苦茶なものはないという。
もっとも、生まれてお宮参り、七五三では最近はオシャレなドレスで千歳飴・・・・・
成人式ではさて何処、結婚式ではそれこそ宗教儀式のアラカルト。
いよいよ葬式では、仏前、神前、教会で・・・・・まあこちらの方は当人はあの世でもう何もわからないのだからいいけれど。
言われてみると、僕もアルバムを見ながら可笑しさがこみ上げてきてしまった。
しかし、それになんとカネのかかったこと、かかること・・・・・・
そんな話しをしたら、その牧師、西洋では考えられない・・・・・
「シンジラレナ~~~イ!!」
と言って、驚いていました。
まあ、いろいろこの国偽装があるけど・・・・・
自分自身が、一番その偽装、人生の儀式の中で何の疑問ももたずにやっていたんですね(笑)。
クリスマスに、お正月、バレンタインデーに、桃の節句に端午の節句・・・・・
最近ではハロウィンまでスーパーではカボチャを並べて騒いでる。
節操がないというか、何でもかんでも“舶来症”には考えさせられます。
2008年01月21日
“雲助バンド”その上
おスエちゃんが池袋西口に高崎時代からの彼女、「スミちゃん」と同棲を始めたのはその三ヶ月ほど前のことだった。
池袋駅、その西口から山手通りの方に一キロほどのところだっただろうか、
「東京トヨペット池袋営業所」の前の路地を入った、所謂「1DK」と言うやつかだった。僕の一人暮らしとは違って「お末ちゃんとスミちゃん」愛の巣は青春の物語がぷんぷんしていた。
つまりそれは、ミュージシャンを夢見た一人の若者と、イラストレーターを目指した一人の少女の・・・・・
昭和47年「神田川」がリリースされる前の年のことだ。
何の事はない、高崎を出る時既に二人は硬い契りを交わしていたのだった。
スミちゃんは高校を卒業するとデザインスクールへ入学するために東京へ行くことになっていたらしい。
その時分、流行はじめの「専門学校」へ通う為の上京であったが上手く示し合わせて、
おスエちゃんもミュージシャン、ギタリスト修行の「東京生活」を決めていたようであった。
そう、まさに「神田川」・・・かぐや姫じゃあないが忘れられない一生のアルバムの一ページではなかっただろうか。
と言うのも、今、二人は共に、54と58。そして一姫二太郎の幸せな家庭を築いている。
「専門学校」と云えば、あの時代「セツ・モードセミナー」とか「千代田デザイナー学院」、そして「東京デザイナー学院」とか・・・・・
全国から「夢見る若造」が集るようにして、東京へ、東京へと来ていた。
なんのことはない、僕もその「若造」の内の一人。
バンドブーム「GSブーム」も去りロックシーンとしてはハードロック系フォーク系が入り乱れていた頃で、
その頃、高崎の時代から目覚め始めていた「ブルース」の、ミュージシャン修行のつもりで一人、東京に出てきた。
丁度その頃のミュージックシーンは、なぜかその黒人音楽の「ブルース」が静かなブームを呼び始めていた。
と言うのも、ヴェンチャーズ、ビートルズ、グループサウンズときた僕らの時代も、アメリカのロックの祭典「ウッドストック」を契機に・・・・・・
ジミー・ヘンドリンクス、ザ・バンド、オールマンブラザースとかのように次第次第に「ブルース」にシフトして行った。
もっとも高崎にいた頃から、ジョン・メイ・オール、マウンテン、そしてブリティッシュロックからブルースに変っていった、
エリック・クラプトン、ジェフ・ベックそれらをコピーして自己陶酔の世界に嵌っていたのだった。
「松さん・・・これ聴かなくちゃ、これ」
そう言っておスエちゃん、御茶ノ水のディスクユニオンとかで買い集めた「マディー・ウオーターズ」、「BBキング」、
そしてさらに渋めの「T・ボーン」とかを、何度も何度も僕に聴かせた。
既にダンスホールも下火になっていて、僕らがいつも出演していた「みゆきダンスホール」もその頃は客もまばらだった。
もっとも、ブルースじゃあ踊れない・・・・・(笑)。
「堀さん・・・もっと踊れる曲やってくんなくちゃあ」
みゆきのママもその時代の移ろいを感じながらも・・・・・・
バンマスの「堀さん」こと、おスエちゃんの兄貴のベーシスト、清美ちゃんにこぼすように言うのだった。
おスエちゃんたちは先に東京でバンド活動をしていた「オトヤ」と「南阿佐ヶ谷ブルースバンド」のベーシスト「丸山さん」、
そして彼、丸山さんが連れてきた、「キサブローさん」に、未だ当時は無名だった「なぎら健壱と缶けり仲間」と云うばんどに参加していた「志保くん」と、
『雲助バンド』
と云う変な名前のブルースバンドを組んで、新宿、荻窪、高円寺など、中央線沿線でライブ活動をしていたのだった。
新宿ロフト、マガジン1/2、西荻窪のロフトとかでブルースをやっていた。
「マガジン1/2」ではブルースバンドとしては当時新進気鋭の「ウエストロードブルースバンド」との対バンもこなしていた。
『ウエストブルースバンド』
それは、今ではその筋では多くのファンを持つ、国内トップブルースギタリストの「塩次伸次」さん、
そしてボーカルの「ホトケ」さん、ついでと云っては失礼だが山岸さんは未だ学生で店の中を飛び回っていた。
それになんと云っても光っていたのがリズム隊の松本さんと小堀さん、それにブルースハープの第一人者妹尾さんの豪華メンバーだった。
雲助バンドは新宿の「御苑スタジオ」で練習をしていた。リーダーはギターボーカルのキサブロー。
「雲助バンド」はキサブロー作詞作曲の日本語オリジナルのブルースしかやらなかった。
「参っちゃうんだよな、日本語でブルースだよ」
と、おスエちゃん。おスエちゃんは高崎にいる頃からジョンメイオール、ピーターグリーン、
そして、マディーウォーターなんかに嵌っていたから今一、その「日本語オリジナルブルース」に乗り切れない様子だった。
おスエちゃんはグレコのレスポールモデル・・・・・
キサブローは確か「SG」。本物のギブソンだったかグレコだったかは記憶に無いが。
ボーカルの志保君は何でも北陸の方の出身でヒョロットした、コミカルな未だ少年ぽさの残る愉快な奴だった。
なんでも「商船高校」、船乗りの学校を出ていたと云うが「海の男」の匂いは感じさせなかった。
ただ、声は「海」で鍛えたかのようなハスキーでブルースにはうってつけの声をしていた。
ひょうきんで「MC」もかなりいけていて、後で気がついたのだが「なぎら健壱と缶けり仲間」だったのも頷けた。
丸山さんは、東武東上線の上板橋に住んでいた。
何度か訪ねた事があるが今風に云えば、フリーター兼バンドマンでどことなく人の良さそうな都会っ子風の青年であった。
赤穂浪士討入りのようなヘアースタイルで、たしかホンモンの「フェンダープレシジョンベースを弾いていた。
当時は「南阿佐ヶ谷ブルースバンド」のベーシストとして中央線沿線では幅を利かせていたようだ。
荻窪、新宿の「ロフト」、「マガジン」と丸山さんの関係のブッキングだったとか。
キサブローさんは青森、弘前の出身。歌舞伎町のコマ劇場裏のレコーディングスタジオでバイトをしていた。
同郷の彼女と同棲していた。彼女は何でもコマ劇場の裏手の「ミルクスタンド」でバイトをしていて僕もお末ちゃんも何度か牛乳などをそこで飲んだ事がある。
とても愛想のいい「りんごちゃん」だった・・・・・かな?
何かの都合でオトヤが高崎に帰ってしまったのでその「雲助バンド」を僕が手伝う事になった。
2008年01月18日
牛の独り言・・・
晴耕雨読・・・
米を作りましょう・・・
野菜を作りましょう・・・
魚を食べましょう・・・
季節感にあった・・・
牛にしてみれば、あまりにも可哀相。
食われるために生まれてくる・・・
人間は「鬼」だ。
牛の独り言・・・
「嗚呼!!・・・・鯨になりたい・・・・・」
鯨になって・・・・・・
「殺すな!!
可哀想ーーーーLっ!!!」
僕に舌なめずりをするやつらに言ってもらいたい。
オーストラリアの「牛の独り言・・・・・」
米を作りましょう・・・
野菜を作りましょう・・・
魚を食べましょう・・・
季節感にあった・・・
牛にしてみれば、あまりにも可哀相。
食われるために生まれてくる・・・
人間は「鬼」だ。
牛の独り言・・・
「嗚呼!!・・・・鯨になりたい・・・・・」
鯨になって・・・・・・
「殺すな!!
可哀想ーーーーLっ!!!」
僕に舌なめずりをするやつらに言ってもらいたい。
オーストラリアの「牛の独り言・・・・・」



